米軍基地から糧を得ているウチナーンチュに、心痛むことがある。先日は名護市辺野古の新基地建設に反対する運動体のリーダーが足から体ごと引きずられた写真を見たときだ

▼ここまでするかという怒りと同時に、衆人の前で、やれと指示されたであろう警備員たちの胸中を思った。米軍人はフェンスの内側に居て手を下さず、住民同士を対峙(たいじ)させる。基地のはざまで繰り返されてきた光景だ

▼悲哀は他にもある。かつて土地を強制接収した米軍への反発から生まれた「黙認耕作地」が、やがて軍用地料をもらいながら農業もできる一石二鳥だと揶揄(やゆ)されるようにもなり、今では生活困窮者の生きる礎になっている(18、19日付第3社会面)

▼嘉手納弾薬庫の知花地区では、いずれ62人が立ち退きを求められる。ほとんどが地権者ではない。月収数万円で耕作地に立てた小屋で寝泊まりしてきた男性(67)は「立ち退きは苦しいが、自分で考えるしかない」と頼るすべを持たない

▼〈黙認のフェンスの寸土寒波来る〉。今月のタイムス俳壇に、南城市の小松澄子さんのこんな投句が載った。寒波が米軍や日本政府なら、黙認耕作者はひとたまりもない

▼戦後27年間の米軍統治下で生まれた沖縄独特の事象が貧困と絡み合い、より複雑化している。基地のはざまで苦しむ人々を忘れてはならない。(与那嶺一枝)