CIA要員の子どもとしてキャンプ知念で暮らしたロバート・ジャクソン氏の回顧録を4回に分けて掲載する。
□ □
私の父は沖縄の米中央情報局(CIA)要員だった。
1960年代から70年代初頭にかけて、私たちはキャンプ知念に住んでいた。表向きは陸軍の補給施設とされ、外側からはリゾート施設のようにも見えた。島の東部にある180ヘクタール近い広大な敷地にパステルカラーの家100軒、レストラン、教会、9ホールのゴルフ場があった。その見掛けとは裏腹に、CIA施設の中で最も機密性が高く、アジア全体の任務に大きな役割を果たす施設だった。
キャンプ知念は51年に創設された。米バージニア州ラングレーにあるCIA本部とアジア各地の施設をつなぐ通信アンテナを備えていた。うっそうとした森に覆われた区域には隠れ家があり、外国人が特殊訓練を受けていた。倉庫には消音器付きの銃、通信機器、船外エンジンを静かに改良した小型ボートなど、秘密作戦用の装備があった。
技術者が働く「ショップ」と呼ばれる工房は、保安のためダイヤル式の錠が毎月交換されていた。彼らは盗聴、写真、武器の専門家だった。備品室にはパスポートを偽造、改ざんするため、タイプライター、入国管理局のスタンプ、ありとあらゆる種類の紙、インク、のりがそろっていた。工具で鍵を開ける練習をしたり、合鍵を作ったりするため外国の錠前もあった。
倉庫の一つでは、沖縄住民の職員が投下作戦用のパラシュートを袋詰めしていた。ラオスでの秘密戦でも使われたものだ。沖縄の職員はCIAのために働いていることも、数千に上るパラシュートの行き先や目的も知らされていなかった。
60年代、冷戦はピークにあり、海外任務は多かった。要員はいつでもCIA本部からの指令に備えていなければならなかった。タイの首都バンコクにあるソ連駐在武官の事務所に盗聴器を仕掛けるといった任務も、知念の担当だった。
ほかに、中国軍人が香港から脱出するのを助けた。インドネシアのパスポートや雇用書類を偽造した。中国人要員に超小型カメラの使い方を訓練した。ベトナム戦争中、北ベトナムが建設した補給路ホーチミン・ルートに沿って、電話を傍受する太陽光発電システムを設置した。
任務に危険はつきものだった。東南アジアに米軍の飛行機やヘリコプターで潜入した。銃撃や悪天候、事故、故障で要員の命が奪われたが、その数は公表されていない。
知念で勤務したある要員は60年、キューバの首都ハバナで中国の通信社に盗聴器を仕掛けたところを現行犯で捕まった。別の知念経験者は70年代、イランのCIA施設の責任者を務めている時に拘束された。(構成=ジョン・ミッチェル特約通信員)
(写図説明)キャンプ知念内にあったゴルフ場(ロバート・ジャクソン氏提供)