戦時中、母は35歳で2カ月の三男をおんぶし、13歳の長兄は1歳4カ月の次男をおぶって避難生活が始まった。3、4歳の私は「後ろから付いて来い、迷うな」と言われるくらい粗末な扱いの避難民だったらしい。兄が終戦後、私のことを冗談で「シティガラー(捨て殻)」と彼の友人たちに話していたのを聞いた。

避難した防空壕は、名護の東江区の「じんが森」中腹部にあった

 避難中は皆いつもおなかをすかせていた。私は母が「お芋みたいな食べ物」をカバンの中に持ち歩いていたのを知っていた。兄は私に「それは芋ではない」と目を光らせて何十回も繰り返し説いた。それは1個の手りゅう弾だった。

 戦地行きを志願した38歳の父は典型的な武士道精神一直線の国家公務員だった。「日本帝国 必勝・万歳!」以外に何も言わず、言わせずの頑固者。「降参するより自決せよ」主義で敬礼して出ていったままだった。

 戦争に関して異なる思想を抱いていた母は夫婦口論中に、ビンタを食らったらしい。母の手りゅう弾は父から持たされたものだと戦後に分かった。

 米軍のB29爆撃機は、名護の空も飛び回った。最初は人間が中に入って操縦しているとは知らず、爆弾が落下され、炎が上がると手をたたいてはしゃいでいた。

 無鉄砲で好奇心の旺盛なワラバーだった私は、壕から飛び出して爆撃を見ていた。それで母は2本の長い帯を、片方は私の胴に巻き、もう片方は自身の体に巻き付けていた。私は泣きたい、わめきたい衝動を抑え、壕の壁に面してじっと立って自制していたのを昨日のように覚えている。

 泣き騒ぐと危険につながるという理屈的な恐怖心より、身近にいた兄の平手打ちが怖かった。父は私のことを長男に任せていた。

 通うはずだった幼稚園が爆撃を受け炎上したのを目撃した時、B29の怖さを幼心に実感した。弟たちがよく泣くので私たちは友軍の日本兵が怖かった。ほかの避難者たちにも煙たがられ、1カ所の壕に落ち着くことは不可能だった。「子どもの泣き声は友軍を誘い、防空壕の避難民全員が切り殺される」。そうなる恐れがあることが自然に分かるようになった。私たち家族はいつでも出ていけるように壕の入り口近くに避難していた。

 時間の感覚は明るい・暗いだけだったが、方向感覚は明確だった。壕から出て真っすぐには町が見え、左に向くと名護湾で、右後ろが名護山の奥だった。そこの谷あいに逃げた。細い小川が流れ、ワクビチ(食用ガエル)や食用の昆虫や草であふれていた。年が明け、季節が移り変わった。

 終戦のビラが山に降ってきた。「いくさーうわとんどー(終戦だよ)」と誰かが叫んだ。山から下りた場所は東江集落の近くで、米軍大型トラック2台、米兵4人が大勢の避難民を待っていた。

 降参するのを躊躇(ちゅうちょ)し、山に残った家族もいたと聞いたが、母は「命どぅ宝」を選択した。家族全員が生きてゆく道を選んだのだ。(てい子与那覇トゥーシー)