【クリッシー悦子通信員】北西フロリダ州の日米協会は18日、「英雄的行為と記憶〜第2次大戦中の日系アメリカ人」と題したパネルディスカッションをペンサコーラ市内で開催し、朝子・モートンさん(66)=久米島町出身=がパネリストの一人として両親の体験を紹介した。第2次世界大戦中、米国で日系人を敵性外国人として強制収容することを命じた大統領命令9066号発布から75周年を記念したもの。120人余りが参加した。

120人余りが参加した北西フロリダ州の日米協会のパネルディスカッションで、朝子・モートンさんが両親の体験を発表した=ペンサコーラ市内

 朝子さんの父・保久村昌永さん(1983年74歳で没)と母サトさん(2004年92歳で没)は1930年代半ばペルーに移住。雑貨店を経営したり、日本人学校で教員をしながら両親や3人の子どもたちと平穏に暮らしていた。

 しかし戦争により生活は一変。第2次大戦でペルーは連合国側についたため日本は敵国となり、日系人に対する排斥運動が相次いだ。40年のリマ暴動では両親が経営する雑貨店も暴徒に襲われ、家族全員が殺されそうになる危機にも見舞われた。家主に助けられ、一家は生命に及ぶ負傷はなかったが、築いた財産も、教員としての仕事も全て失った。

 41年の真珠湾攻撃で情勢はさらに悪化。日本軍捕虜となった米国人と交換するため米国は南米の日系人を米国へ送るよう各国に要請。ペルー政府はこれに応じ、2300人余りが米国に送られたという。

 保久村一家は42年、300人余りの他の日系人と共にペルーを追われた。その後、米テキサス州シゴビール市の収容所に入れられ、翌年ニューヨークに移動、スウェーデン籍の交換船に乗せられ、インドのゴアに到着し、米国人捕虜と交換された。航海中に保久村夫妻には4番目の子が生まれた。その後、日本の船舶に移され44年1月、沖縄に帰還。戦時体制下の沖縄で昌永さんはすぐに召集され、戦後捕虜になりハワイに送られた。久米島に保久村一家が戻ってきたのは46年のことである。朝子さんは51年に久米島で生まれた。

 朝子さんは両親の話や手記、残された資料から両親の軌跡をたどる作業を続けている。ペルーで父母が勤務していた日本人学校跡地も訪ねた。発表後、朝子さんは「父母から米国やペルーに恨みを聞いたことはなかった。運命に逆らってもどうしようもないという思いだったと思う。あるいは生き延びることに必死だったのかも。米国における日系人強制収容はよく知られているが、南米の日系人のこのような歴史は知られていない。若い世代の日本人や米国人にもぜひ知ってもらいたい」と話した。