1944(昭和19)年10月に敬礼して父は南に向かった。翌年6月23日、沖縄戦の司令官、牛島満中将が自決し、組織的な戦闘が終わった。

健児之塔の近くから見た海。父はこの海の景色を見て名護湾を思い浮かべ、残してきた家族のことを思っただろうか

 撃たれて2個の弾が入ったままの父の状況について、伝え聞いた母は見舞いに出掛けた。10カ月の赤子を背に名護から摩文仁までの旧式な道路60キロ、徒歩と馬車に乗って1日ちょっとでたどり着いた。読谷の有名な「一本の松」の下で1度だけ赤子に授乳させたことは、そこを通るたびに聞かされた。 

 戦争中の山での話は口を閉ざしていたのに、野垂れ死にした夫に会いに行った話は、苦痛の口調でしゃべっていた母。夫に出会い、いかなる心境で名護に戻ったのだろう。当時の母のつらさを想像する。

 壕の中で「死にカンティー」(潔く死にきれず)にいた夫。すでに武器・医療品なし。戦友たちにもウジがはい回り、暗い壕は悪臭とうめき声が充満していた。既に絶命したのか動かない者たちもいた。母が父に声を掛けると、父は母の袖を捕まえて細々と言った。しばらくたって母は黒砂糖を1個父の口に入れ、思い切って袖を振り放し、現場を去った。 

 父が撃たれた近くで捕虜になった戦友が、ハワイから終戦3年後に戻ってきた。戦友は父に「構うな逃げろ」と言われたとのこと。撃たれた父は壕までたどり着いたのだ。 男は父の仏前で長時間、頭を垂れていた。母が声を掛けた。「命どぅ 宝やんどぅ、ゆーけーてぃ ちゃさー」(命は宝だよ、よく帰ってきたね)。男はそれまで耐えていた悲痛な感情があふれだし、声を殺して泣いた。初めて大人の男が泣くのを見たので印象に残っている。 

 月下美人の花が神々しく満開した。人間の生きざまもいかに神々しいものか語ってくれた母。壕で最後に見た夫の悲惨な生きざまを思い出しながら。

 その頃から母は名護湾の方角に向かって2曲の歌を歌っていた。1曲は「海ゆかば」、もう1曲は「恩納節」で、父の三線の十八番だったらしい。否が応でも私はアマークマー覚えてしまった。「ちじぬふぇーぬ うたちゅしーすやすやー。くいしぬぶまでぃぬ…すやーすやー」。「すやすや」だから子守歌だと思っていた。もし父が「命どぅ宝を選び、捕虜となっていたら」と1度だけ母がもらしたことがある。残された子どもたちの将来を考え、生きる道を選んだ母の不屈の精神に乾杯したい。

 その後、我々きょうだい、子孫は結婚し、病気や事故で亡くなった人を合わせて64人に増えた。実に「命どぅ宝」の一例といえよう。自分だけが生きるためではなく、他の人間の命を救い、共存共栄しながら生きるということがいかに尊いことか、言うまでもないからである。(てい子与那覇トゥーシー)