「県民の台所」として70年近い歴史を刻んできた那覇市樋川の農連市場が閉鎖され、隣接する「のうれんプラザ」に移転し、新たな一歩を踏み出す。

 マチグヮー文化の継承を図り、にぎわいを取り戻す改革をどう進めていくか。多くの課題を抱えての再出発だ。

 ガーブ川を挟んで市場北側に完成したのうれんプラザは地上3階建ての近代的な施設。1階に生鮮野菜などの小売店が入り、2階には卸売業者が入居。一部に農連市場ならではの「相対売り」スペースが設けられ、きょう1日から本格始動する。

 琉球農連によって「農連中央市場」が開設されたのは1953年だが、それ以前にできた闇市がそもそもの始まりだ。

 沖縄戦が終わり、那覇の街に疎開先や収容所から市民らが戻ってくると、米軍からいち早く解放された壺屋周辺の土地に人々が集まり、自然発生的に市が立つようになった。

 マチグヮーや国際通りともつながり、南部からのバスが集まる開南を中心とした市場周辺は、戦後しばらく那覇の中心商業地だった。60年代の写真を見ると、たいへんな人だかりで、活気に満ちあふれている様子が分かる。

 その市場を支えてきたのは女性たち。戦争で夫を失い、子どもを育てるため必死で働き、苦しい時代を乗り越えたという人が少なくない。農連の歴史は、生きるために立ち上がった沖縄女性の歩みとも重なる。  

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 農連市場地区の再開発は、84年に那覇市などが整備構想を策定してから30年越しの計画である。 

 のうれんプラザは再開発の核となる施設で、現市場が取り壊された後には、市営住宅や駐車場が整備される予定だ。戦後復興の象徴的な場所だった街は今、大きく変わろうとしている。

 老朽化や防災上の理由、市中心部の人口減少や市場の衰退から、再開発による再生を望む声は強い。

 しかし一方で、市場がなくなることで、独特の雰囲気と人情味あふれるマチグヮー文化が消えゆくのではないかと心配する声もある。

 品物に値札がなく、売り手と買い手が交渉しながら値段を決める相対売りが農連市場の魅力の一つだ。新施設でも継続するとはいえ、木造トタン屋根の古い建物を含む歴史が醸し出してきた風情をそのまま継承するのは難しいだろう。

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 再開発で整備した駐車場に観光バスを止め、のうれんプラザを起点に、平和通りや国際通りを歩く仕組みが構想されている。

 気になるのは、那覇市民意識調査で、マチグヮーに「全く行かない」「年1~2回」と答えた人が約7割にも上ったことだ。

 県民に愛されなければ、観光客が求める沖縄らしさは失われる。

 マチグヮー文化の継承と同時に、地元にも観光客にも親しまれる新しい市場文化を創り出していく工夫が求められる。