1935年に撮影された沖縄各地の白黒写真を人工知能(AI)を使ってカラー化する作業を、首都大学東京の渡邉英徳准教授(情報デザイン)のチームが進めている。AIで自動色付けする技術を活用し、沖縄独特の風景や建物の色などを人間が補正。83年前の沖縄の風景が色鮮やかに表現されている。
1935年の沖縄、色鮮やかに 首都大学東京チームが写真をカラー化
発見された277コマの写真の中で唯一、2017年現在の光景ではないかと錯覚した。

急に降ってきた雨に、セーラー服に身を包んだ女子学生が自転車を停めて傘を差している。カッパを羽織っている学生もいる。82年前すでに、傘もカッパも自転車もセーラー服もあった事実。2017年への地続きを感じずにはいられなかった。
どの学校の学生なのか。朝日新聞の写真説明には、沖縄県立第三高等女学校(以下、第三高女)とある。第三高女は戦後、名護高校に統合され、今はもうない。1920年に補習学校として創立、24年に国頭高等女学校となり、30年に第三高女となった。跡地は現在、北部病院の看護宿舎になっている。
今回、インタビューに応じてくれたのは、第三高女の最後の卒業生4人だ。卒業生の一人、古堅輝子さんは、沖縄本島の北部で第三高女と言えば「一流の高校。自慢の学校だった」という。金武、宜野座、恩納村、国頭からも生徒が集まった。
4人は、1935年の写真に「これは先輩たちの制服だねー」と口をそろえ、モノクロ写真を食い入るように見つめた。
「白だから夏の制服」
「紺色のきれいなヒダスカートのころだね」
写真から当時の記憶が次々と引き出される。
しかし、4人は「私たちはこのセーラー服に憧れて入学したのに着られないまま卒業したよ」と残念がった。岸本志保子さんによると、写真に映る制服は、第三高女ができた30年から40年ごろまでのわずか10年ほどしか存在しなかったもので、幻の制服だったという。
4人が入学したのは1941年。沖縄で地上戦が始まる4年前だ。
岸本さんは「先輩たちのスカートの生地は綿でしっかりしていたと思うけど、戦争が近づいて私たちが入学した時には化繊の素材に変わっていた。動くと縫い目からすぐ破れてしまうほど弱いものだった。3年生になると制服はモンペに変わって、看護の勉強や竹槍の練習が始まった。カバンも靴も手縫いした」と振り返った。
筆者は実際の色合いを知りたくて、当時の制服がどこかに残っていないか名護市の資料館などに問い合わせたり探したりしたのが、結局見つからなかった。
憧れの制服話で盛り上がっていたが、色付け写真を見せると顔色が変わった。

「よくできているねー」
「学校の芝生はまさにこの色。背景の木もいいと思う」
「確かに、靴も白だったね」
感心する一方で、指摘も出てきた。
「傘の色はこれでいい。黒かった。でも、柄の部分は赤色よ。赤ははっきりでていない」
「右のカッパの人たちの色がおかしい。芝生の色になっているね」
私がカッパの色について、人工知能を使った色付け技術が芝生と勘違いした可能性があると説明し、どのような色だったのかを尋ねると、「私はカッパを見たことがないよ。あったの?」という卒業生も。
「戦争に向かうにつれて、カッパは見なくなったね」
「カーキみたいな、壁の色のような感じじゃなかった?」
私はGoogleで「カーキ色」と検索して、どの色か探ることにした。

どの色ですか? 近い色はありますか?
記憶にある2人が同時に指差した色は同じものだった。

緑色に近いカーキ色ではないかと尋ねても、「絶対これ」だと話していた。
実際、色付けした写真の色と照らし合わせると、緑色になった部分を除く色と近しい。筆者は実物を探しているが、こちらもまだ見つけられていない。
セーラー服の色合いについて、もっと知りたい。誰か知っている方はいないかと尋ねたけれど、「みんな死んで分からんさー」と笑い飛ばされてしまった。
ちなみに、自転車通学については、当時の写真が残っていた。

古堅さんによると、当時は高校に合格するとすぐに自転車の練習をしたという。
「自転車は高かったと思うけど、ないと学校にいけなかった時代。数時間かけて通った。朝起きたらタイヤがパンクしていないかチェックするのが日課だった」と語った。
今後、インタビューした内容を元に、再び色付けし、卒業生たちに会いに行く予定だ。
取材協力:岸本志保子さん、久場豊子さん、知念靖子さん、古堅輝子さん