映画監督 喜屋武靖さん(54)=那覇市出身

 公開中の映画「北の桜守」の滝田洋二郎監督や、「リング」などを撮った中田秀夫監督らの下で、助監督として修業を積んだ。一筋縄では行かない職人が集う製作現場のまとめ役として頭角を現し、2003年に「輪舞曲 RONDO」で監督デビュー。5本の作品を世に送り出した。今の関心事は、戦前の詩人・作詞家で、川崎と沖縄の懸け橋となった佐藤惣之助。「埋もれた歴史を掘り起こしたい」と意欲を燃やす。

「埋もれた歴史を今の世の中によみがえらせたい」と話す喜屋武靖監督=沖縄タイムス東京支社

 何かを表現することを夢見て、むさぼるように映画を見た那覇高時代。近くの国際通りには映画館がいくつもあった。授業を抜け出し、制服のまま国映館の映写室を訪ね、「舞台裏を見学させてほしい」と直談判したこともある。

 「スター・ウォーズ」などの迫力ある作品に憧れ、「アメリカン・グラフィティ」のような青春群像劇にも引かれた。「昼食を抜いたり、高校から自宅のある真玉橋付近まで歩いてバス賃を浮かせたりして映画代を捻出しました」。今だから明かせる涙ぐましい節約だ。

 上京後は、日本映画学校1期生として3年間学び、フリーの助監督として製作現場に飛び込む。「お前は使えない」「田舎へ帰れ」。罵声を浴びながら、先輩の技を見て、覚えていった。厳しさに耐えきれず、どんどん仲間が去っていく。「自分で仕事を楽しくしないと、他人は楽しくしてくれない」と言い聞かせた。

 助監督は製作の進行が滞らないよう、あらゆる雑用をこなす仕事。主人公の腕時計一つないだけで撮影が止まる。「権限は小さいのに、責任の重さはのしかかってくる」と笑う。

 手際よくなれば監督になれるかといえば、そうとも言えない。むしろ、優秀な助監督であればあるほど、監督は自分の右腕として手元に置きたいため“万年助監督”に陥るジレンマを抱える。「だからこそ、撮影が終わる夜から翌朝にかけて、自分自身で創造性を磨かないといけないんです」

 がむしゃらだった助監督時代。ある時、笑築過激団の東京公演を見て、思いがけず涙がこぼれた。標準語と方言が混じったセリフ。「沖縄にいた頃、僕らが使っていた言葉だ」。東京で過ごす中で意識していなかったウチナーンチュのDNAが目覚めた体験だった。今、佐藤惣之助にまつわる歴史を調べているのも、その延長線上にある。

 「惣之助を軸に、伊波普猷や山之口貘ら戦前の文化人が一本の糸で結ばれている。その歴史をいつかドラマ・舞台化してみたい」。生粋の映画人の血が騒ぐ。(東京報道部・西江昭吾)=連載・アクロス沖縄<81>

 【プロフィール】きゃん・やすし 1963年、那覇市生まれ。那覇高卒業後、日本映画学校に入学。卒業制作作品「子供の頃戦争があった」(脚本担当)は、PFFアワードのグランプリ候補として映画館で上映された。監督・助監督として映画やCMを手掛けたほか、近年は郷里関連の動画記録にも携わる。今月20日には沖縄観光コンベンションビューロー東京事務所で、佐藤惣之助にまつわる講演を行う。