社説

社説[甲子園100回と沖縄]戦後史と重ね思い熱く

2018年8月8日 09:18

 第100回の大きな節目を迎えた全国高校野球選手権大会(夏の甲子園)は史上最多の56校が出場し、熱戦を繰り広げている。

 前身の全国中等学校優勝野球大会は1915年に始まった。太平洋戦争勃発で中断を余儀なくされたが、46年に再開し歴史を紡いできた。

 沖縄にとって甲子園は時代を映す鏡である。沖縄が甲子園に出場したのは第40回大会からだ。

 52年に石川が沖縄代表として戦後初めて東九州大会に出場した。当時は沖縄大会で優勝しても、同大会を勝ち抜かなければならず、突破できなかった。甲子園の土を県勢が初めて踏んだのが58年の首里。この年は第40回記念大会で1県1代表となり、初出場が実現したのである。初戦で敦賀(福井)に0-3で敗れた。試合にならないほどの大敗を喫するのではないかと、高校野球関係者が不安を募らせていただけに、負けはしたが、安(あん)堵(ど)もしたという。

 米軍統治下、選手たちが持ち帰ろうとした甲子園の土は植物検疫法に引っかかり海に捨てざるを得なかった。同情した日本航空の客室乗務員から土の代わりに贈られた小石をはめ込んだ「友愛の碑」がいまも校庭に建つ。

 あれから60年がたつ。いまや沖縄は押しも押されもせぬ「強豪県」に成長した。

 高校野球に過剰な意味づけをするのは見当違いかもしれない。しかし県民は沖縄戦を経て苦難の戦後史の歩みに重ね合わせてきた。単なるスポーツを超えた特別な存在であることもまた事実である。

■    ■

 県代表の興南は大会第5日の9日、土浦日大(茨城)と対戦する。

 ちょうど50年前。興南の我喜屋優監督が同校の主将、4番打者として県勢初のベスト4に進出し、「興南旋風」を巻き起こしたことを覚えている人もいるだろう。

 68年は主席公選、立法院議員選、那覇市長選の三大選挙が実施された年で、日米両政府による沖縄返還交渉が進められていたころである。

 当時の松岡政保主席は、勝つたびに復帰が近くなるように感じられます、と激励の電報を打った。沖縄中が熱狂し、試合中は道路から車が消えた、というのは決して大げさではない。

 本土コンプレックスにさいなまれた復帰前、興南旋風は県民のみならず、本土で学び、生活する県出身者を勇気づけ、自信と誇りを与えた。

■    ■

 県勢の夏の甲子園は、70年代は名将、故栽弘義監督率いる豊見城が3年連続でベスト8に進出。沖縄水産に移り90、91年に連続準優勝。90年の天理(奈良)との決勝戦でレフトライナーが好捕され、0-1で劇的な幕切れとなった。県内高校野球部の監督・部長のアンケートで名勝負のトップに選ばれた。多くの人の記憶に強く刻まれている。

 2010年、興南が夏の甲子園で悲願の初優勝、ついに全国の頂点に立った。

 「のびのび野球」が沖縄のチームの持ち味だ。興南の選手たちには、あこがれの舞台で思う存分力を発揮し、試合を楽しんでほしい。

【関連】球児たちの1世紀 夏の甲子園100回

野球・ゴルフ・サッカー・バスケ・・・プロからアマまでスポーツ全記事、読み放題! >>「沖縄タイムス+プラス スポーツ」

あわせて読みたい

関連リンク

社説のバックナンバー

沖縄関連、今話題です(外部サイト)

JavaScriptをOnにしてください

アクセスランキング

ニュース 解説・コラム

沖縄タイムスのお得な情報をゲット!

友だち追加
LINE@

沖縄タイムスのおすすめ記事をお届け!

友だち追加
LINE NEWS