戦後日本を代表するSF作家、小松左京の1968年の短編「戦争はなかった」を30年ぶりに読んだ。NHKラジオ「高橋源一郎と読む『戦争の向こう側』」で現在の社会状況に通じると紹介された

▼主人公が階段で転倒した衝撃で、太平洋戦争がなかったことになっている世界に迷い込む。家族も友人も街の様子も変わらないが、戦争の痕跡や記憶だけが社会から跡形もなく消えている

▼「戦争はあった。多くの人が死んだ」と言い張る主人公は異常者扱い。戦争の有無と関係なく「平和と繁栄」を謳歌(おうか)しているのだから「別にいいじゃないか」と友人に諭される

▼番組で詩人のアーサー・ビナードさんは「ぼくらは死者の上を歩いて生きている。どう生きて、どう命を絶たれたかを背負わなきゃいけない」と論じた。歴史を消去して生きていくことはできない

▼体験者が減った戦後73年目の夏、記憶は風化し、安倍晋三首相が改憲を急ぐ。いずれ誰かが「戦争などなかった」と言いだし、多数派を占める事態になりかねない。かつてのSF小説に現実が近づいているようで不安を覚える

▼「戦争を忘れてはいけない」とお題目を叫ぶだけでは風化は進む。「別にいいじゃないか」の声に押し流される。現在と地続きの「痛切な記憶」をどう語り継ぐか。文学は今なお有効な手段だと感じた8月。(田嶋正雄)