琉球王国時代から600年にわたって沖縄の歴史と文化に育まれ、うちなーんちゅの心のよりどころとなってきた三線。かつての王府は三線製作者の三線打や、三線打を管轄する役人・三線主取(サンシンヌドゥイ)の役職を置き、卓越した名工を育て、優れた三線を生み出した。近年は製作者のなり手不足などで、市場に出回る三線の75%を海外産が占めるようになったが、伝統的な技法でつくられる県産三線の人気は根強い。県三線製作事業協同組合理事長で、県工芸士の渡慶次道政さん(70)に、三線づくりに懸ける思いやこだわりを聞いた。(社会部・石川亮太)

「職人は謙虚さが大事」と話す県三線製作事業協同組合理事長の渡慶次道政さん=5日、那覇市繁多川の渡慶次三線工房

渡慶次道政さん製作の真壁型の三線

「職人は謙虚さが大事」と話す県三線製作事業協同組合理事長の渡慶次道政さん=5日、那覇市繁多川の渡慶次三線工房
渡慶次道政さん製作の真壁型の三線

 那覇市繁多川の住宅街にある渡慶次三線工房。この道46年の渡慶次さんが三線材に型紙をあて、三線で最も重要な部分となる棹(さお)(ソー)の寸法の墨付けを丁寧に施してみせた。白のボールペンで引いた線を指し、「これは試し。実際につくるときはもっと先の細い鉄筆でやる。より繊細な線が引けるし、正確な棹がつくれるからね」。三線は主に棹、胴(チーガ)、糸巻き(カラクイ)から成り、棹の形状や太さで型が決まる。真壁(マカビ)型や与那城(ヨナグシク)型など伝統的な7型を、図面通り忠実に再現するのが、工芸士としてのこだわりで、誇りだ。

 渡慶次さんは17歳の頃、祖母から三線をプレゼントされ、以来その魅力に取りつかれた。当時はグループサウンズやフォークソングの全盛期。周囲に三線を弾く同世代はいなかったが、古典と民謡の教室に通い、20代で数々の賞を受賞し、教師免許を取った。「演奏するうちに弦が切れたり、カラクイ(糸巻き)が壊れるさーね。三線屋さんに修理に持って行き、通っているうちに三線づくりにも興味がわいた」。24歳で故・渡名喜興進さんに弟子入り。職人かたぎで「目で盗め」という師匠のきめ細かい手作業に目をこらし、技を会得していった。棹だけでなく、胴への蛇の皮張り(カーバリ)、カラクイづくり、弦を乗せて胴に立てる駒(ウマグヮー)づくりの全てを学び、独立した。

 現在、一連の作業を1人でしているのは渡慶次さんただひとり。竹製の駒づくりをしているのも渡慶次さんだけで、年間6千個をつくり、三線制作者に卸す。

 三線づくりは根気がいり、手間がかかる。「なまや すんなとぅーてぃん あとぅや とぅくとぅいんどー」(今は損だけど、将来的に得する)。師匠からの教えを今も忘れない。

 棹に最適とされるコクタン(クルチ)は県産材が手に入らなくなり、現在は主にフィリピン産を使用しているが、それも輸出制限で入手困難状態。また適した素材が手に入っても、三線材としては、最低5年以上は寝かせる必要がある。変形防止のためだ。大事に使えば棹は100年も200年も持ち、「一生ものどころか、子や孫に引き継ぐこともできる」という。

 「若手の中には待ちきれずに早くつくってしまう者もいる。だが、棹がたゆんですぐに駄目になる。評価してもらえなかったら、客は離れてしまう。職人は地道さと謙虚さが大事。自分の技術と商品を誇大広告するのもよくないね」。組合の理事長として若手らの仕事に、一層の丁寧さを求める。

 渡慶次さんがつくるのは年間20挺程度だ。注文を受けたら、客に工房へ来てもらい、声色や音の好みを聞き、材料選びから始める。「客に喜んでもらえる三線をつくるためだし、トラブル防止にもなる。これにはこだわっているよ」と強調した。

 沖縄のことわざ、「世間(しきん)やてぃーいー」が座右の銘。自分が思うよりも世間は広く、知識や技術は奥深いものとの意味だ。「職人は一生勉強。満足したらそこで終わり。チュラカーギー(美人)の三線づくりをこれからも求めていく。私はまだまだ46年だ」と力を込めた。