庶民のお菓子として、明治時代から多くのウチナーンチュに愛されてきた「タンナファクルー」。一風変わった商品名は、このお菓子を生み出した故玉那覇二郎さんが、色黒だったことから、玉那覇の「タンナファ」とあだ名「クルー」が組み合わさって生まれたとされる。ただ黒糖による色合いから「玉那覇さんが作った黒い菓子」という説も。沖縄戦で一時途絶えた経緯もあり、不明な点もあるタンナファクルー。わずかな情報をたどりながら、謎多き菓子の秘密を追った。(政経部・島袋晋作)

焼き上がったタンナファクルーを取り出す大田靖代表

タンナファクルーの歴史や、製造の難しさについて語る、大田靖代表=19日午前、那覇市国場

首里市真和志町の地図。下方にマージマチグヮー、「玉那ハ」姓は右と左上方に2軒ある

焼き上がったタンナファクルーを取り出す大田靖代表 タンナファクルーの歴史や、製造の難しさについて語る、大田靖代表=19日午前、那覇市国場 首里市真和志町の地図。下方にマージマチグヮー、「玉那ハ」姓は右と左上方に2軒ある

 19日午前7時、香ばしい匂いが漂う那覇市国場の住宅街。今年で創業120年を迎える丸玉製菓の工場では、3代目の大田靖代表(58)と従業員がタンナファクルー作りに汗を流していた。

 袋詰めまで全て手作業で、毎日1万個以上を製造。那覇市牧志の沖映通りの直売店のほか、県内量販店などに出荷され、学校給食や幼稚園のおやつとして注文が入ることもあるという。

 幅広い層に受け入れられているタンナファクルーの製造工程はいたってシンプルだ。黒糖の煮出し液に小麦粉とふくらし粉を加えて練り上げ、薄く伸したものを丸く切り取り、オーブンで焼き上げるだけ。

 ただ、「製造には長年の経験と技術が求められる」と大田代表。生地はその日の温度や湿度の影響を受けやすく、製造工程の途中でも手触りを確かめながら、水分調整に気を配る。

 母方の祖父で、2代目の故玉那覇宏次郎さんから見よう見まねで教わった技術。「寡黙な職人気質で、配合やこね方は一切、教えてくれなかった。材料をこっそり計り直して自分で試しては失敗を繰り返し、少しずつ覚えていった」と大田代表。それ故に、菓子誕生の経緯や歴史などもほぼ聞かされていないという。

 『那覇市史』には「玉那覇黒(タンナファクルー)…首里真和志町の玉那覇家が始めたもの。安価なので、庶民は光餅(クンペン)の代用品として用いた」と記されている。

 那覇市が1970年代の聞き取り調査で作った戦前の首里市真和志町の区画地図には、県立第一中学校(現・首里高校)近くに「マーヂマチグヮー」と呼ばれる市場がある。その周辺に「玉那ハ」の名が確認できる。

 那覇市文化財課の外間政明学芸員によると、琉球王国時代のお菓子は官職である「庖丁(ほうちゅう)人」が作る高級品で、庶民が口にすることはできないものだった。

 しかし王府解体に伴い野に下った職人らによって、庶民向けにも菓子が作られるようになっていったという。「クルアミグヮー」(黒砂糖のあめ玉)や、おこしの一種である「ハチャグミ」などさまざまなお菓子が生まれた。中でも、腹持ちのいいタンナファクルーやまんじゅうは人気を集めた。

 簡単なものは家庭でも作られたというが、食文化研究家の安次富順子さん(74)は「焼き菓子のタンナファクルーを作るには、それなりの道具が必要。玉那覇家は元々お菓子を作る技術を持っていたのではないか」と推測する。

 また、光餅の代用品だったとされる点について、「白糖で作る光餅との見た目の違いから、玉那覇さんの作った黒いお菓子という説もうなずける。また王朝菓子は大きく、当初のタンナファクルーも今のサイズより大きかったのでは」と話す。

 大田代表によると、2代目の宏次郎さんはは戦中、旧日本軍の小禄飛行場で炊飯長を務め、戦後は外国船の乗員として再スタートを切った。「すべてが焼き払われてしまい、腕に覚えのあるコックとして船で働き、見聞を深めたのでは」と想像する。

 宏次郎さんは、ほどなく沖縄に戻り、菓子製造を再開した。伝統菓子のみならず洋菓子も手掛け、次第にタンナファクルーを作り始めたという。

 タンナファクルーは10個入りを販売していたが、今は11個入り。理由は、工場も兼ねていた沖映通りの直営店を訪れる客に、宏次郎氏が一つ「シーブン」(おまけ)を渡していたから。

 大田代表は、学生時代のアルバイトから数えて約40年。「祖父の味を再現することを目標にやってきた。まだ納得できないところもあるが、変わらないおいしさをこれからも提供していきたい」と汗を拭った。