那覇市の住宅地で9日にあった不発弾の爆破では、避難を呼び掛けられた住民らが不安や恐怖を感じながら自宅を一時後にした。戦後73年たってなお残る遺物は、今も消えない戦争の記憶を呼び起こす。
避難対象区域にある有料老人ホーム琉球では午前7時半すぎから1時間ほどかけて、入所する高齢者31人を介護タクシーで系列の施設に避難させた。大半が車いす生活で、胃に直接栄養を送る「胃ろう」の器具が必要な人もいる。
入所する糸満市出身の女性(82)は「戦争を思い出した。胸騒ぎがする」。沖縄戦で祖父母、母、姉を失った。祖母は非常食のかつお節を食べさせてくれた直後に爆弾を受けて亡くなった。涙ぐみながら、当時の記憶を思い起こした。
交通規制の始まる午前10時に向け、区域内では市職員が避難を呼び掛けて回った。
避難予定という現場から約60メートルの距離に住む女性(68)は「この辺りはたくさんの爆弾が落ちていたと、祖母から聞いたことがある。まだ近所には埋まっている不発弾があると思う。爆破処理と聞くと怖い」と話した。避難の時間帯は出かけるという女性(66)は「近くにあってびっくりした。不安ですね」。県内のあちこちに不発弾があるのだろうと思う。子どもたちが触って事故になるのが気がかりだ。
娘(2)と避難所を訪れた女性(33)は県外から1年ほど前に沖縄に来た。不発弾を通し、「沖縄ってこういう所なのかな」と感じた。これまで戦争のことは深く関わる機会はなかったが、「ちょっと知りたいな」との思いが芽生えたという。
午後3時3分に点火されると、「ドンッ」と低い爆発音が聞こえ、中継映像からは、処理壕の上に積み上がった48個の土のうなどが沈み、砂煙が舞い上がる様子が確認できた。
小禄中学校に避難した70代の男性は「爆発音が聞こえてびっくりした。避難時間が長くて疲れたけど無事に終わってよかった」と胸をなで下ろした。
交通規制は予定時間から約1時間遅れ、午後5時5分に解除。避難区域の境界では、規制解除を待つ車が長い列もあった。