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辺野古住民の本音は? 土砂投入に安堵、タコスの皮焼く82歳

2018年12月25日 05:00

 コーンミールと小麦粉をといた白いタネを鉄板に落としていく。15センチほどの丸が並ぶ。火が通り、黄色みを帯びてくる。裏表を焼き、15分ほどすれば、タコスの皮の出来上がりだ。

タコスの皮を焼く玉利栄次郎さん=11月2日、名護市辺野古

玉利さんが営んでいたレストラン「ワシントン」。今も同じ建物が残る(玉利朝輝さん提供)

タコスの皮を焼く玉利栄次郎さん=11月2日、名護市辺野古 玉利さんが営んでいたレストラン「ワシントン」。今も同じ建物が残る(玉利朝輝さん提供)

 11月初旬、沖縄県名護市辺野古の玉利栄次郎さん(82)は早朝から皮作りにいそしんだ。「一番難しいのは火の加減ね」。ひと月に4千~5千枚ほど焼き、市内の道の駅や飲食店に卸す。

 玉利さんは辺野古のまちづくりを担った一人だ。鹿児島奄美地方の沖永良部島の農家出身で、中学卒業後、沖縄に来た。当時は奄美もまだ米軍統治下で、米軍関係の仕事を求め、働きに来る人が多かった。

 浦添市のレストランで皿洗いから始め、飲食店を渡り歩き、嘉手納町で独立した。コザ(現沖縄市)ではやっていたタコスを知り、自身の店でも出した。皮は粉を混ぜてこねて、伸ばして、型を取るのが一般的だったが、それでは追いつかないほどの人気。ヒラヤーチーのように焼いて作る方法を編み出した。

 辺野古に来たのは、1960年。57年に建設が始まった米軍キャンプ・シュワブの米兵が目当てだった。基地に伴い造成され、まだ道も舗装されていない土地に玉利さんは真っ先にトタンぶきのレストラン「ワシントン」を建てた。その後、米軍公認の「Aサイン」を得るために、コンクリートに建て替えた。

 60年代のベトナム戦争時、街はにぎわった。「今の国際通りみたい」。ジュークボックスに次々とお金がつぎ込まれ、米国の流行歌が流れた。

 だが、日本復帰後の円高に伴い、活気は右肩下がりに。80年代には、長男の朝輝さん(59)に経営を委ねて、那覇でレストランを新たに開いた。店は繁盛したが、バブル崩壊のあおりで再び客足は遠のいた。

 玉利さんには、タコス作りの腕前が残った。「ずっとやるとは思わなかった」。皮作りに使う鉄板は、辺野古に来た時から使ってきたなじみのものだ。

 現在、辺野古にはかつて飲食店だった店の跡がいくつもある。玉利さんは街の現状を「閑古鳥が鳴いている」と残念がる。心の中には、かつてのにぎわいが残っている。

 玉利さんにとって、辺野古は「基地の街」。基地があったからこそ、店もあったと思う。1997年に名護市長が、普天間飛行場の辺野古への移設受け入れを表明した際は、活気を取り戻す千載一遇のチャンスだと、商工会の仲間と祝杯を上げた。

 それから20年以上。今月14日には土砂投入が始まり、「一段落したという気持ち。ほっとしている」。国がやることだから、止まらないだろうと思う。

 タコスは今、沖縄名物として定着した。「観光客にも受けるとは思わなかった。うれしいですよ」。その歴史を担ってきた自負がにじむ。(社会部・岡田将平)

 ◇    ◇

 「ここで暮らす@辺野古」は随時掲載。新基地建設が進む辺野古の人たちの暮らしを見つめる。

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