1964年の正月に結婚して渡米した。その頃、沖縄は右側通行でドルを使っていた。67年に3番目の子が生まれると米軍人の夫はベトナムに行った。1年後、私たち家族5人は沖縄で合流し、嘉手納基地内に住んだ。

 70年の年末、名護の実家に社会活動家だった母のグループが集まっていた。一人の女性がこう言った。「イナグングァーヤ、アメリカーと結婚、ワラバーもアメリカー、だからアマー組さーね(娘は米国人と結婚し、子どもたち米国人。だからあっち側)」。つまり、基地賛成側という意味である。「アメリカーだから」という先入観や既成概念に基づく発言は、今でも県内外それほど変わらないように思える。

 「米国では思想が違う夫婦でも一緒に子育てを頑張っていますよ。相思相愛で互いに尊重し合っています」と話したら、女性は「なるほど」と言って話は終わった。

 2週間後の12月20日、夫に電話がかかった。電話の主は興奮ぎみに「嘉手納基地ゲート2付近で米国人の多くの車を沖縄の人たちが燃やしている」と告げた。いわゆる「コザ騒動」である。

 私は米施政下の圧政に、島ンチュの怒りが限界に達したんだと直感し、そう発言した。同じ島ンチュとして胸が熱くなり、頭ががんがんしてきた。

 一方、目前の夫は被害に遭った同胞たちに同情していた。沖縄の過剰な基地負担、不平等な現状を肯定しているかのように思え、距離を感じた。

 自宅から近い第2ゲートに向かおうとした私から、夫は車の鍵を取り上げ、口論になった。2人とも言いたい放題。「私たちは考えが正反対。やはり国境がある」「子どもたちは米国市民。君はどうするつもりか? 僕の希望はどこへ行っても家族一緒がいい」

 私は何も言わず手すりにつかまって2階へ上がった。当時3〜6歳の子どもたちの寝顔を見た時、自分は母親なんだということを再自覚させられた。夫は高ぶった気持ちを抑えようと、1階で空手の型をゆっくり深呼吸しながら繰り返していた。

 後で知ったが、米軍人の運転する車が住民をひいた交通事故が事件の発端だった。不平等な米施政下で、島ンチュへの人権侵害や差別が横行し、その蓄積した不満がもたらした結果と理解した。

 その後、私たち家族は米国へ移住し、夫は退役した。コザ騒動の話はゆっくりと話し合うことができた。

 彼はベトナム戦争にも疑問を感じていた。40年前の78年の12月、夫は41歳の若さで他界した。今生きていたら、退役軍人として沖縄のために共に平和運動をしていただろうと追想している。(てい子与那覇トゥーシー)=毎月第4月曜掲載

(写図説明)家の前は雪景色。この時期になると早世した夫を思い出す