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「やられた!」運動会の日 まさかの不審火 “県民の台所”を襲った苦難

2019年6月11日 05:34

[公設市場物語]歴史編(上)

 現地建て替え工事に向けて、6月に現施設での営業を終える那覇市の第一牧志公設市場。1950年に牧志公設市場として営業開始以来、「県民の台所」として親しまれてきた。60年代前半から10年以上続いた改築・移転問題や69年の火災焼失を経て、72年10月に現施設がオープン。当時を知る店主らは「公設市場を盛り上げるために何でもやったよ」と話す。

(写図説明)不審火で焼失した牧志公設市場(西市場)=1969年10月19日

(写図説明)平屋の建物が連なる牧志公設市場=1968年12月21日

(写図説明)牧志公設市場などの主な歴史(戦後〜1972年)

(写図説明)不審火で焼失した牧志公設市場(西市場)=1969年10月19日
(写図説明)平屋の建物が連なる牧志公設市場=1968年12月21日
(写図説明)牧志公設市場などの主な歴史(戦後〜1972年)

■ガーブ川の氾濫

 牧志公設市場は那覇市が、闇市場の露天商人を市役所跡地(現施設敷地)に集めたことが始まり。戦後、いち早く開放された壺屋地域周辺には帰還者ら多くの人が集い、青空市や闇市がつくられた。市は500人超といわれた商人を集めて使用料を取り、市場を管理した。バラック小屋を経て、50年12月に木造平屋の精肉部・鮮魚部(西市場)、翌年には雑貨部・衣料部(東市場)が整備された。

 床が周囲より階段3段分低かったとされる西市場は、そばを通るガーブ川が氾濫するたびに浸水した。「浸水したら水に潜って包丁を取りに行ったよ」。西市場で62年に精肉店を開業し、西市場組合連合会青年部長や第一牧志公設市場組合連合会会長を務めた高良仁徳さん(87)は振り返る。

■追い打ち

 衛生問題に加え、地主が土地の明け渡しを求めていたこともあり、市は66年に西市場から約150メートル離れた場所(現にぎわい広場)への移転計画を発表する。

 しかし、立地の悪さや生鮮食品売り場を地下にすることに反対する業者らは移転せず、69年7月に完成した新市場は第二牧志公設市場としてスタートした。

 土地や改築問題が解決しないまま、追い打ちをかける出来事が起こる。同年10月19日午後、不審火で西市場の大半が焼失した。当時、ぼや騒ぎが何度も発生。青年部長だった高良さんが「自分の店は自分で守ろう」と呼び掛け、高齢者も女性も不寝番で店の警戒を続けていたところだった。

 その日は日曜日で市内の小学校で運動会があり、多くの市場関係者も出払っていた。高良さんも子どもが通う若狭小の運動会で「公設市場が火事です。市場に向かってください」という放送を聞き、「やられた。昼だったか」とバイクに飛び乗った。火の勢いは強く、延焼を防ぐために近くの燃えていない店舗を急いで壊していったという。放火が疑われたが、真相は不明のままだ。

■現施設オープン

 土地問題は裁判にも発展したが、最終的に土地の置換などで決着。西市場は現地で建て替えられ、72年10月3日に第一牧志公設市場がオープンした。

 火災による3年間のブランクや第二市場との競争といった懸念もあった。「離れた客を取り戻そうと知恵を絞った」と高良さん。まだ氷で商品を冷やす店が多い中、新市場では全店舗での冷蔵庫整備を進めた。

 資金がない店には購入する冷蔵庫自体を担保にして資金援助してもらうなど銀行に掛け合った。「公設市場は商店街の目玉。みんな、生活を守るために必死だったよ」

 [ことば]那覇市内の公設市場 那覇市内には1969年までに九つの公設市場が整備された。牧志の西・東市場に加え、東町、辻、田原、宇栄原、若松の市営団地に併設される形で誕生し、水道局庁舎の地下にも真和志公設市場が整備された。69年には第二牧志公設市場が開業。地元の買い物拠点だったが、店主の高齢化や店舗の減少を受け衰退した。

>>[公設市場物語]歴史編(下)に続く

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