沖縄芝居の吉田妙子さん(83)=那覇市=は沖縄の言葉で表現することを大切にする。戦後、村芝居に魅了されたが、最初に入った劇団は共通語の作品を扱った。「ときわ座」「珊瑚座」で沖縄芝居と琉球歌劇を究めた後、「カラを破ろう」と50歳を過ぎて、沖縄芝居の枠を超え、一人芝居「道」、娼婦(しょうふ)と若い米兵の恋愛を描いた「嘉間良心中」に挑む。そこで鍵になったのは自身や沖縄の人々の経験がしみついた、沖縄の言葉だった。今は「若い世代に、うちなーぐちを渡すのが役目」と意欲を燃やす。(特報・謝花直美)

「テレビを見ていても、演技に生かせるか考える」と話す吉田妙子さん=那覇市

娼婦と脱走米兵の恋を描いた「嘉間良心中」。吉田妙子さんの体当たりの演技が話題を呼んだ=1990年7月、那覇市の沖縄ジァンジァン

八木政男さん(右)とともにうちなーぐち漫才を披露する吉田妙子さん=2016年6月、浦添市・国立劇場おきなわ

「テレビを見ていても、演技に生かせるか考える」と話す吉田妙子さん=那覇市
娼婦と脱走米兵の恋を描いた「嘉間良心中」。吉田妙子さんの体当たりの演技が話題を呼んだ=1990年7月、那覇市の沖縄ジァンジァン
八木政男さん(右)とともにうちなーぐち漫才を披露する吉田妙子さん=2016年6月、浦添市・国立劇場おきなわ

 旧具志川村で中学卒業後、入団したのは「あさひ座」。戦時に日本軍慰問公演をした人々が立ち上げた劇団で股旅物が中心。「むるヤマトグチやっさーと憧れた」。学校の方言札で、吉田さんもしまくとぅばは劣ったものという価値をうえつけられていた。

 劇団の栄枯盛衰が激しい時代。女優は引っ張りだこだった。真喜志康忠さんの「ときわ座」で「伊江島ハンドー小」などの主役を演じ沖縄芝居にのめり込む。

 「珊瑚座」に入団後は、親泊興照さんの指導の下、「歌劇わからんねー、妙子んかぃちけー(歌劇で分からないところがあれば、妙子に聞け)」と言われるまでになった。当時、観客を飽きさせないため、演目は「2日がわるー(2日上映)」「4日がわるー(4日上映)」。役者も必死。「あんまさんち、にんじーねーや、はい、ありがすんどぉー(疲れたといって休むと、はい、主役はあれがやるよ)」。叱咤(しった)激励に発憤(はっぷん)した。

 厳しい経験が、吉田さんを同じ所でとどまらせない気性に変えた。「次はどんな役をやろうか」。「カラを破ろう」と一人芝居「道」(84年)に挑戦。さらに50歳を過ぎて「嘉間良心中」(90年)は、娼婦と若い米兵の恋愛を、体当たりで演じた。この役には吉田さんの沖縄戦と戦後の経験が重ねられている。

◇     ◇

 「私たちはすぐに捕虜になり大変な経験はしていない」。1945年4月2日、米軍上陸2日目に、旧具志川村平良川で「捕虜」になった。他の人々とぎゅうぎゅうづめに詰め込まれた民家で鮮烈な体験をした。

 目の前のターブックヮ(田んぼ)には、日本兵2人が倒れていた。その先には高齢の女性。周りには家族らしい人々。皆死んでいた。「見えるんだけど、行けない。民家を『出てはいけない』と言われたから」

 その夜。大声を出し騒ぐ男性。パ、パーン。声は聞こえなくなった。「おじいさんの生死は分からない」

 父親は、住民への投降の呼び掛け役として、米軍に連行された。帰ると、どっさりと菓子や食料を持って来て、皆と分け合った。

 この時の経験を吉田さんはこう表現する。「見ても手が届かない。助けることができない。我慢しないといけない。米兵にも頼らないといけない」。生殺与奪を米軍に握られながら、生きようとする人々の姿が焼き付いた。

 戦後、沖縄芝居で巡業したBC通り(現パークアベニュー)での経験も同じだ。芝居小屋の周りは米兵相手のバーが林立。芝居小屋の後方の観客席では、ホステスが米兵と横になって芝居を見ていた。その姿は「嘉間良心中」(作吉田スエ子、脚本平敷晶子)で演じた娼婦に重ねられた。「ホステスたちの姿は、うちなーぐちでしか表せない」。吉田さんがうちなーぐちの台詞(せりふ)にした。

 それまでの与えられた役を演じる女優の枠を一歩踏み出した。「『道』や『嘉間良心中』でうちなーぐちを入れたことで、自分の中に蓄積された言葉、心の中にある物が、自然に出てきた」と振り返る。

 前向きに進んできた吉田さんが今抱く夢の一つ、しまくとぅばの継承だ。「うちなーぐち わたすしぇーや じぶんたちの すくぶん(うちなーぐちを手渡すのは私たちの役目)」。「元気である限り、若い人に伝えていきたい」と話す。

 よしだ・たえこ 1935年生まれ。旧具志川村出身。沖縄芝居にとどまらず、演劇、ラジオ、テレビで幅広く活躍する。99年、県指定無形文化財「琉球歌劇」保持者認定。琉球歌劇保存会会長。