南城市玉城にある奥武島は漁業が盛んだ。戦前からウミンチュ(漁業者)たちは、沖合でサバ(サメ)を取るフカアッチャー(沖合漁)や沿岸の小魚を捕るイノーアッチャー(近海漁)で生計を立ててきた。奥武島の漁業の移り変わりや漁業に関する奥武独特の言葉について話を聞いた。(南部報道部・知念豊)

大漁のガチュンに群がる子どもたち=1977年、南城市玉城・奥武(中村一男さん撮影)

カミアチネーをする奥武島の女性たち(上江洲均さん撮影)

60年以上ウミンチュとして活躍した嶺井藤一さん(右)と妻の静江さん=1月20日、南城市玉城奥武の自宅

大漁のガチュンに群がる子どもたち=1977年、南城市玉城・奥武(中村一男さん撮影)
カミアチネーをする奥武島の女性たち(上江洲均さん撮影) 60年以上ウミンチュとして活躍した嶺井藤一さん(右)と妻の静江さん=1月20日、南城市玉城奥武の自宅

 昨年ウミンチュを引退した嶺井藤一さん(88)は1946年に中学校卒業後、父の船に乗り、ウミンチュとして歩み始めた。当時父が乗っていた船は、米軍が払い下げた小さなエンジンを取り付けたサバニ。「サバクヮーシガ、イチュンドー」(サメを捕りに行くぞ)のかけ声の下、30隻から40隻の船団が大東島方面に145キロほどの距離にある漁場で「サバアッチャー」(サメ漁)をした。

 港に戻って水揚げしたサバは「サバヌハニー」(フカヒレ)として売ったり「ソージル」(干物)を、砂糖じょうゆの煮付けにして食べたという。島では久高島のウミンチュもサバを水揚げしていたという。藤一さんによると、サバの油は船を長持ちさせる効果があり、サバニに塗って使うなど重用していたという。

 だが、51年5月8日の夜、サバアッチのため沖合に出ていた船団に「アイリス台風」が襲来した。嵐の中、島の若いウミンチュ42人が犠牲になった。かろうじて島に帰ることができた藤一さんは「午後10時ごろに暴風が来た。波は荒れ、仲間を呼ぶこともできなかった」と振り返る。妻の静江さん(86)は「事故では島全体が静まり返り、無事に帰ってくるよう拝みばかりしていた」と話した。

 この事故以来、奥武島ではフカアッチャーをする人が激減。別の仕事を求める人が続出し、ウミンチュは減少の一途をたどったという。藤一さんも多くのウミンチュと同様にイノーアッチャーに切り替えた。沿岸でタマンやエーグヮー、ガチュンなどの魚を捕った。静江さんによると、捕った魚はたらいに入れて女性4~5人のグループ一緒に那覇市で「カミアチネー」(行商)をしたという。

 今ではモズクの養殖やマグロ、セーイカなどの漁も盛んになり、若い漁業者も増えてきているという。

 また、奥武島では島出身ら有志で、奥武島独特の言葉をまとめた冊子『奥武方言』の編集作業を進めている。中村一男編集委員長は、奥武島のウミンチュについて「ウミンージェーラー」と説明する。普段おとなしいが、一度船に乗ると仕事に厳しくなるという意味だ。

 一方で、かつてウミンチュが使っていた、星を指す言葉で「チュライィナグブシ」(美女星)や「トーシンブシ」(唐船星)などの言葉が現在では失われているとし、「純粋な島の言葉を記録に残して後世に伝えたい」と話した。