ただただ恐ろしかった。闘牛の角のように先のとがった靴。巨体を揺らし、隠し持ったフォークで対戦相手の頭を突き、血まみれで不敵な笑みを浮かべる。幼心にこれほど極悪非道なプロレスラーがいるのかと震え上がった

▼若い世代にはなじみが薄いだろうが、中高年には「黒い呪術師」と呼ばれたこの人の記憶が鮮烈に残っているはず。1970~80年代に全盛期だったアブドーラ・ザ・ブッチャーさん(78)の引退式が19日、東京・両国国技館であった

▼昔は凶暴なレスラーにしか映らなかったが、大人になるにつれて見方は変わる。プロレスという興行を成功させるため、期待通りの悪役を演じるスマートさが分かってくる

▼勧善懲悪のリングの世界。試合でぶつかっても互いに力量を認め、敬う気持ちを胸に秘めていた。そんな礼節は昭和という時代の遺物になってしまったのか

▼会員制交流サイト(SNS)で口汚くののしり、自らは安全地帯にいて相手を「ヒール」に仕立て上げる。沖縄へのヘイトスピーチもそう。寛容さを失った先に待ち受けるのは社会の分断しかない

▼式の最後でマイクを握ったブッチャーさんは若者にこう語った。「ちゃんと親を大事にしろ。いずれお前たちも年を取る。忘れるんじゃないぞ」。希代の悪役は親孝行を説く心優しきヒーローだった。(西江昭吾)