国の重要無形文化財・久米島紬には「どぅるくゎーしー」という言葉がある。600年ともいわれる歴史を持つ久米島の絹織物の工程の一つで、織る前の糸の泥染めを指す。着物業界で「久米島ブラック」とも呼ばれる象徴的な生地の黒褐色を生む。染める糸の量が多く、季節も選ぶため1人ではできない。協力して取り組む織り手たちは、「島のゆいまーるを表す言葉。いつまでも残したい」と話す。(南部報道部・堀川幸太郎)

久米島紬の「どぅるくゎーしー(泥染め)」について語った宮平登美子さん(左)と、次女の佐久田美佐子さん。第一人者とされる母の泥染めをこの秋は手伝い、習う=13日、久米島町

泥染めのため、グールやティカチで下染めをした絹糸を干す織り手。久米島の秋の風物詩でもある=2018年11月、同町真謝

久米島紬の「どぅるくゎーしー(泥染め)」について語った宮平登美子さん(左)と、次女の佐久田美佐子さん。第一人者とされる母の泥染めをこの秋は手伝い、習う=13日、久米島町 泥染めのため、グールやティカチで下染めをした絹糸を干す織り手。久米島の秋の風物詩でもある=2018年11月、同町真謝

 織り手歴62年で泥染めの第一人者、宮平登美子さん(87)=久米島町真謝=は「どぅるくゎーしーは『泥を食わせる』。家畜に餌をやるのは『むぬくゎーしー(ものを食べさせる)』。牛や豚と同じように、毎年の天候や織り手の感覚で仕上がり具合が異なる布(紬)は、暮らしに近い生き物みたいなもの」と語る。「今でも普段、私たちは紬と呼ばない。ぬぬ、うてぃなー?(布を織ったか?)などと言う」とも話す。文化財としての固有名詞より、身近さを感じさせる「ぬぬ」という言葉遣いにも、現金収入をもたらす紬と暮らしの密接な歴史がにじむ。

 久米島紬は、織り手が仕上がりの柄をどうするか考え、図案と呼ばれる設計図を作る。図案通りに色を染めたい部分と、染めたくない部分に分け、かしとぅー(縦糸)、ぬちとぅー(緯糸)それぞれの染めたくない部分をビニールひもなどできつく縛って染料が染み込むのを防ぐ。「絣くくり」と呼ばれる工程だ。

 絣くくりの後、泥染めのための下染めが始まる。毎年9月末ごろから島に自生するグール(サルトリイバラ)、ティカチ(オキナワシャリンバイ)の木片を煮出した染料に糸の束を計100回ほど、1カ月近く漬けては干す。泥の鉄分と化学反応を起こし、黒褐色を生む植物の成分「タンニン」を染み渡らせる。

 この頃、織り手らは「どぅるくゎーしー、いつにしようか」と話し始めるという。1人が1カ月で1反(着物1着分)織るのが平均的なペースとされる中、多い人で30~40反分の糸を一度に染めたこともあり、織り手同士が協力できる日取りを選ぶ必要があるからだ。

 日差しが和らぎ、糸を弱らせる心配がない11月ごろ。どぅるくゎーしーの日の織り手たちは午前4時ごろに起き、元気を出すために昔はぜいたく品だったゆで卵などを食べて同5、6時ごろに集まる。糸を泥に浸しては1時間おき、また浸す工程を5、6回繰り返す。夕方まで続け、最後に近くの川の水でよくすすいで色目を見る。染まり具合を見て、日を改めて再び泥染めを施すこともある。泥染めの糸が織り手の家々の物干し台につるされ、風に揺れる光景は、久米島の秋の風物詩でもある。

 一方で、時代が進むにつれて泥染めをする織り手は減っている。織り手約100人がいる久米島紬事業協同組合(松元徹理事長)によると近年、高齢の織り手の引退が相次ぎ、市場拡大を目指す中で黄や緑、灰色などの色物を手掛ける若い人が増えた。

 泥染め向きの鉄分豊かな泥も減った。かつての米どころの島の水田はキビ畑に変わった。道路造成で湿地も消え、泥を集めることができるのは町阿嘉のウザ池1カ所だけになった。重要無形文化財の久米島紬保持団体(桃原〓子代表)は昨年から、技術継承のため泥染めに取り組んでいる。

 宮平さんは2013年に最後の泥染めをした。その後、体調を崩して休んでいたが今秋、6年ぶりに再開するという。次女の佐久田美佐子さん(62)=町真謝=は、今年5月に久米島紬事業協同組合の後継者育成事業を終える見込みで、母の仕事を手伝う。佐久田さんは「幼い頃からなじみ深い織物。母は『技は見て習え』と手ほどきしてくれない。長年の手仕事をしっかり焼き付けたい」と、島の歴史を受け継ぐつもりだ。

(※〓は、のぎへんに「貞」)