9秒でまるわかり!

  • 豊見城市教委が、市内の沖縄戦体験者の証言をユーチューブで配信
  • 足の踏み場もないほど死体があった…。31人が苦しい記憶を語った
  • 「戦争はつらいよ」。学校現場で映像を活用し、平和の継続を願う

 豊見城の沖縄戦はどんなものだったのか、市出身の戦争体験者31人へのインタビューを証言映像にまとめた「語り継ぐ 受け継ぐ 豊見城の戦争記憶」が3月、完成した。沖縄戦に関する証言は、豊見城村史戦争編が文字資料としてあるが、映像は初めて。戦争体験者が減る中、表情や声を通して、よりダイレクトに体験が伝わる映像記録を残そうと、市教育委員会文化課が2017年度から2年かけ作成した。多くの人に伝えるため、証言者の承諾を得て、動画投稿サイト「ユーチューブ」での公開も始めている。(南部報道部・高崎園子)

嘉数陽之男さんの証言映像

金城静子さんの証言映像

DVDを手に「学校の平和学習で活用してほしい」と呼び掛ける豊見城市文化課の島袋幸司さん=同市伊良波の市立中央図書館

嘉数陽之男さんの証言映像 金城静子さんの証言映像 DVDを手に「学校の平和学習で活用してほしい」と呼び掛ける豊見城市文化課の島袋幸司さん=同市伊良波の市立中央図書館

 証言者のうち、撮影時最年少79歳だった嘉数陽之男(よしお)さん=市平良=は沖縄戦当時、6歳だった。

 「道に人がいっぱい死んでいて、子どもの足では乗り越えられない。死体に足を突っ込んだら、『腐敗熱』があってびっくりするほど熱かった」と映像で克明に語る。

 嘉数さんは2度、死の間際まで追い込まれた。1度目は御嶽に隠れていた際の艦砲射撃。2度目は、米兵に見つかった時。母親に帯で首を絞め殺されそうになった。当時、「米軍には何をされるか分からない。なぶり殺しに遭う」と言われていた。

 「自分は関係ないと思っている人が多いが、戦争は人ごとじゃない。自分がそうなるということだ。戦争はつらい。それに耐えられる覚悟がないとやっちゃいけない」と力を込める。

 撮影時最年長101歳の金城静子さん=市真玉橋=は当時28歳。チニンモー(知念森)と呼ばれる山にあった憲兵隊壕に避難していたが長男がよく泣き、壕にいられなくなった。行き場がなく、死のうとした時、沖縄出身の兵隊に「命を捨ててはいけないよ」と言われ、踏みとどまった経験を語った。その長男、豊明さんはのちに豊見城市の初代市長になった。

 「映像を見ると、表情や声の調子から、文字以上に感じられるものがある。それこそが情報だと改めて思った」。市文化課の学芸員、島袋幸司さん(35)は話す。

 市は今回、特に学校現場で、平和学習に活用してもらうことを目的に、授業で使いやすい長さに編集するなど工夫した。

 証言は1人20分程度の映像に。証言を盛り込みながら豊見城の戦争の全体像がつかめるように総集編(40分)、同短縮版(20分)も作った。ウチナーグチも多く出てくるため、字幕を付けた。

 「自分たちが住んでいる地域の身近な人がどんな戦争体験をしたのか知ってほしい」と、地域バランスを考慮し、市内の各字をほぼ網羅する形で証言を集めた。戦時中だけ切り取るのではなく、生活がどう変化していったのか分かるよう、戦前、戦後も含めて語ってもらった。

 DVDは200部作成。4月中にも市内の小中学校、県立高校、各自治会に配布する。

[ことば]
 豊見城村(当時)の沖縄戦 当時の人口の10人に4人に当たる約3600人が亡くなった。村内での死者はうち約1100人。海軍司令部など日本軍の拠点が置かれたことや、日本海軍の小禄飛行場(現那覇市)に隣接していたことから、米軍の集中攻撃を受け、多くの犠牲者が出たとみられる。