沖縄戦に18歳で徴兵された渡口彦信さん(92)=読谷村=は、戦時中に上官だった日本兵から贈られた一つの詩を今でも大切に覚えている。詩を作ったのは、ひめゆり学徒隊の愛唱した「相思樹の歌(別れの曲)」も作詞した太田博・陸軍少尉(1921〜45年)。渡口さんは詩を「与那国小唄」の曲に乗せて暗い壕の中で口ずさむことで、心を慰めた。長年の思いが結実し、5月に初めて福島県にある太田氏の墓を訪ねる。(中部報道部・大城志織)

太田博・陸軍少尉=渡口彦信さん提供

福島県立郡山商業高校同窓会が発刊した「太田博遺稿集」に寄せた太田氏が作詞した詩

上官だった太田博・陸軍少尉に思いをはせる渡口彦信さん=4月22日、読谷村古堅

太田博・陸軍少尉=渡口彦信さん提供 福島県立郡山商業高校同窓会が発刊した「太田博遺稿集」に寄せた太田氏が作詞した詩 上官だった太田博・陸軍少尉に思いをはせる渡口彦信さん=4月22日、読谷村古堅

■爆弾は当たらない、怖くない

 太田氏は福島県の郡山商業学校(現郡山商業高校)を卒業。詩の創作に励んでいたが44年、陸軍少尉として沖縄の高射砲隊第二中隊に赴任した。45年3月に第二中隊に配属された渡口さんにとって太田氏は8階級上の「雲の上の存在」で、直接言葉を交わすことはなかった。

 陣地は爆撃を受けて南部方面へ後退を続け、牧志の壕を使い陣地を構築した。4月初めごろ、壕内に一編の詩が書かれた紙が配られた。渡口さんは「1番では牧志の少女が兵士に好意を抱いている。2番では爆弾は当たらない、怖くないという意味」と話す。

 同じ18歳の県出身者5人と歌っている間は心が安らいだ。「戦争では人間の尊厳がなくなってしまうが、太田少尉は初年兵で若い私たちを哀れみ、気に掛けてくれた人情味のある人だった」としのぶ。

■戦後60年を経て消息

 部隊は6月に解散。渡口さんは摩文仁で捕虜となり、移送されたハワイの収容所で1年半過ごした。太田氏の消息は不明だった。戦後60年に福島県立郡山商業高校同窓会主催で開かれた太田氏の慰霊祭の新聞記事で、沖縄で戦死したことを知った。その後、同校同窓会が発刊した太田氏の遺稿集に手記を寄せた。

 同校から5月14日の講演会に招かれる機会に墓参する。渡口さんは「戦場でのむごたらしい殺し合いだけではなく、極限の状態にあっても詩を作り人を慰めようと、人間であろうとし続けた太田少尉の思いを後世に残していきたい」と語った。