反戦の信条 継承願う
仲村真さん(63) 県平和祈念資料館友の会

 沖縄戦最後の激戦地となった沖縄県糸満市摩文仁に「平和の礎」ができたのは1995(平成7)年6月。国籍や民間人の区別なく、全戦没者を追悼する目的で造られ、国内外からの来訪者が絶えない。「世界に向けて平和の波が広がるように」との願いは、令和の時代に受け継がれる。(社会部・國吉美香、新垣卓也) 

「大きな代償のもとに礎があることを伝えていきたい」と話す仲村真さん=26日、糸満市摩文仁・平和の礎

「平和の礎」に関する主な出来事

平和の礎に刻む戦没者調査から除幕式まで携わった元県庁職員の比嘉博さん=24日、那覇市

刻銘者の情報提供を呼び掛ける1995年1月の沖縄タイムス特別臨時号。特集は約50ページに及んだ

「大きな代償のもとに礎があることを伝えていきたい」と話す仲村真さん=26日、糸満市摩文仁・平和の礎 「平和の礎」に関する主な出来事 平和の礎に刻む戦没者調査から除幕式まで携わった元県庁職員の比嘉博さん=24日、那覇市 刻銘者の情報提供を呼び掛ける1995年1月の沖縄タイムス特別臨時号。特集は約50ページに及んだ

 平和の礎の完成を控えた1995年1月、県の遺骨収集事業に参加した県平和祈念資料館友の会事務局長の仲村真さん(63)=浦添市=は、糸満市宇江城の丘にいた。掘り出される土の中から見つかったのは、半世紀にわたって眠っていた戦没者の遺骨や手りゅう弾。「身近な場所に、まだ戦争の跡が残っている」。そう実感したことが、平和ガイドを志す一つのきっかけになった。 

 大手企業のシステムエンジニアとして働いていた2004年、県の平和祈念資料館ボランティア養成講座を受講し、他の修了生らと共に友の会を発足させた。

 戦跡を巡るフィールドワークのガイドを主に務め、定年退職後は礎がある平和祈念公園や資料館も案内している。

 18年6月現在の刻銘者数は24万1525人。伊江島で戦死した予備役軍人の伯父の名前も刻まれた。「激しい軍民混在の地上戦だった歴史を示すのが礎の役目。大きな代償のもとに礎があることを『令和』の時代にも伝えていきたい」と話す。

 「沖縄戦の実相を知れば知るほど、戦争を美化することはできない。礎が、平和を希求する信条を後世に残していくモニュメントになれば」。ガイドの一人としてそう願っている。

聞き取り調査に奔走
比嘉博さん(67) 当時県庁の平和推進係

 1992年、県庁の平和推進係(当時)に、十数箱の段ボール箱が運び込まれた。中身は、県が保管していた16種類にわたる戦没者の名簿の写し。ここから、平和の礎に刻む氏名の調査が始まった。

 当時の係は3人。そのうちの1人、比嘉博さん(67)は「年齢や戦没場所が欠けている人や名前の重複もあり、精査は途方もない作業に思えた」と振り返る。

 90年に県知事に就任した大田昌秀氏は、所信表明で沖縄戦の戦没者全員の氏名を記載する塔の建立について検討する、と述べた。これが後の平和の礎になる。

 戦没者について、大田氏が「どこの誰かを解明し、丁寧に、平等に刻銘する」と、繰り返していたことを比嘉さんは覚えている。それは戦時中、鉄血勤皇隊に動員され、多くの犠牲者を見てきた大田氏だからこそのこだわりに映った。

 93年、役場や民生委員らに協力を仰ぎ、聞き取り調査が始まった。一家全滅の世帯があれば周辺を聞き込み、名前が不明であれば位牌(いはい)を見に行き、確認は徹底したつもりだった。それでも、漏れがないかどうか不安が残った。

 95年、沖縄タイムスと琉球新報に刻銘予定者を公開し情報提供を呼び掛けると、500~千件の情報提供が連日殺到した。「名もないまま死んだ子も」という申告もあった。

 その様を見ていた比嘉さんは、役所や住民、誰もが当事者として礎をつくり上げているのだと実感した。

 当時は戦時中を鮮明に記憶する人が大勢いた。比嘉さんは「今では絶対にできない。あの時代、かつ大田知事がいたからこそ、平和の礎は完成した」と語る。