沖縄出身の86歳、普久原朝輝さんは戦後74年、熊本県で暮らす。身も心も熊本人になったつもりでいた。昨年8月8日付の読売新聞の記事「琉球人のウルトラマン」を読むまでは-。

上原正三さん(左)と会い、固く握手を交わす普久原朝輝さん=4月19日、東京都内

上原正三さんの記事が載った読売新聞を手にする普久原朝輝さん=熊本市内の自宅(有田厚子さん提供)

上原正三さん(左)と会い、固く握手を交わす普久原朝輝さん=4月19日、東京都内 上原正三さんの記事が載った読売新聞を手にする普久原朝輝さん=熊本市内の自宅(有田厚子さん提供)

■警察官だった父と別れ疎開

 那覇市銘苅で生まれた。1941年12月、日本の真珠湾攻撃後の提灯(ちょうちん)行列に加わり、那覇を練り歩いて日米開戦を祝った。安里国民学校4年の学芸会で誇らしげに出征兵士役を演じた記憶は今も鮮やか。「日本は勝つ」と信じて疑わない軍国少年だった。

 44年7月、サイパンが陥落すると大本営は沖縄を「本土防衛の砦(とりで)」に位置付ける。戦場で足手まといになる一般住民の10万人疎開計画が作られたが、遅々として進まない。そこで出た「範を示すため、公務員の家族から疎開せよ」。父朝章は警察官だった。

 同年8月に父と別れ、祖父と母、妹の4人で熊本県千丁村(現八代市)の光誓寺に疎開。千丁国民学校の6年に編入され、ひもじい生活に耐えた。翌年4月、故郷沖縄は戦場になったが勝利を疑わなかった。8月15日の玉音放送を聞いても「いつか逆襲する」と信じていた。

 その後、父の死を知る。6月21日、糸満市真壁で住民の避難誘導中に砲撃を受けて殉職したという。悲報は普久原さんを現実に引き戻した。一家は沖縄に引き揚げることなく熊本に残り、懸命に戦後を生きた。

■偶然、目にした新聞記事で

 現在は熊本市の自宅で妻澄子さん(86)を介護する日々を送る。昨年8月8日、駅の売店で偶然買った読売新聞の記事に目が留まった。沖縄出身で東京在住の脚本家、上原正三さん(82)が半生を語る内容。上原さんも父が警察官で同じ千丁村に疎開していた。

 戦後、沖縄差別が露骨だった時代の東京で「琉球人として生きる」ことを標榜(ひょうぼう)した上原さん。円谷プロで故金城哲夫氏と共にウルトラマンシリーズの礎を築き、その後も手掛けた子ども番組の中で戦争の不条理さ、差別の愚かさを説き続けた生きざまを初めて知った。

 「死ぬ前に、琉球のウルトラマンと呼ばれるこの人に会いたい」。湧き上がる衝動を抑えきれず、大分県に住む娘夫婦に連絡を取った。

あふれ出る故郷への思い

■初めて見た義父の涙に戸惑い

 「熊本まで来てくれと義父に呼ばれ、そこで記事を見せられ、『上原正三さんに会いたい』と。正直、途方に暮れた」。昨年8月、普久原朝輝さん(86)の娘婿、有田英樹さん(59)は心底戸惑った。義父の涙を初めて見たからだ。

 妻厚子さん(60)と結婚して35年、義父から沖縄の話を聞いた記憶はほとんどない。なのに、堰(せき)を切ったように出てくる沖縄戦や疎開の話、父の遺骨を今も拾えない無念さ…。義父の願いをかなえてあげたいが、つてはなかった。

 新婚当時、義父から沖縄タイムス社刊の「鉄の暴風」を渡されたことがある。1944年の「十・十空襲」で千人が逃げ込んだ辻の地下空洞。蒸し焼きになることを恐れた那覇署員が抜刀して追い出し、さらなる犠牲を防いだとの一文に線が引かれていた。義父の字で「父朝章である」。この記憶がよみがえり、有田さんは本紙に連絡した。

■「奇跡的じゃないか」と快諾

 那覇市出身の上原正三さん(82)は44年9月、警察官の父を残して家族6人で台湾に渡った。直後、一度戻ろうと船に乗り、西表で台風避難の間に「十・十空襲」で那覇が壊滅。船は約2週間漂流して九州に着き、熊本県千丁村の円萬寺で敗戦までをすごした。

 2人は当時、千丁国民学校の6年生と2年生だったが互いの記憶はない。それでも本紙の打診に、上原さんは「同じ千丁に疎開した警察官の息子同士。奇跡的じゃないか」と快諾した。

■残りの命を沖縄のために

 4月、有田さん夫妻と一緒に上京した普久原さん。上原さんが到着すると、顔を真っ赤にして手を握った。初対面にもかかわらず出た言葉は「懐かしい」。会う前から流していた涙が止まらなかった。

 途切れない疎開の話。普久原さんが「僕はすぐ打ち解けた。親友の家族に救われ、熊本に残ることができた」と話せば、上原さんは「熊本の言葉が分からず、いつもおどおどしていた」。約4時間、沖縄の現状や県民投票、ウルトラマン秘話などにも話が及んだ。

 上原さんと会うことが決まってから、普久原さんは「沖縄に恩返ししたい」が口癖になった。4月、全財産を基に「普久原 未来のための事業団」を設立。公益社団法人化を目指し、子どもたちを対象にした国際交流、沖縄戦や差別を学ぶ活動などに取り組むという。「残りの命、沖縄の未来のために頑張りたい」と決意を伝えた。

 上原さんは「普久原さんは長い間、沖縄の記憶や沖縄戦で父を亡くした無念さを封印してきたのではないか。僕の記事を見て解かれたのだと思う」と語る。「僕も沖縄の若いクリエイターを育成し後を託すつもりだ。互いに長生きして、沖縄の若者を育てていこう」。再会を誓った2人のタンメー(おじいさん)。握り合った手をなかなか離そうとしなかった。(運動部・磯野直)