両親のペルー移民や捕虜交換などの体験を30年以上たどり続けている米国フロリダ州に住む朝子モートンさん(67)=久米島町出身。「移民体験は海外でのことなので難しい点もあるが、貴重な体験を若い世代に伝えていきたい」と語り、「同様な体験をした県人や親族と情報交換など交流していきたい」と願っている。

ペルーで両親が勤務していた現地の学校を訪ねた朝子モートンさん(右から2人目)

 朝子さんの両親、保久村昌永さん、サトさんは1930年代に20代でペルーに移民したが、太平洋戦争の勃発に伴い、歴史に翻弄(ほんろう)された。連合国側についたペルーでは40年、リマ排日暴動が発生。朝子さんの両親や家族は命は何とか守れたが、現地日本人学校教員の仕事も、築き上げた財産も失った。

 米国は日本軍の捕虜となった自国兵との捕虜交換要員として南米諸国に移民していた日本人を差し出すよう要請、ペルー政府はそれに応じて42年、1500人余りを出国させた。朝子さんの両親も3人の子と共に捕虜交換要員にされた。

 米国テキサス州シゴビール市の収容所での1年半の生活を経て、交換船に乗せられた。捕虜交換は43年インド洋上で行われ、日本に帰還。その後昌永さんは防衛隊に入隊。捕虜となりハワイへ送られた。両親が故郷に戻ったのは終戦後のことだった。

 朝子さんは両親がペルーに移民していたことは幼い頃から聞いていたが、大変な思いをしていたことを知ったのはサトさんが80年代に書いた手記を読んだ後。「ショックだった。こんな苦労をしていたんだ。家族を守るために必死に頑張ってきた父母にただただ感謝した」

 その後、両親が残した手記、写真、関連書籍や書類の入手、米国への入国者名簿、捕虜交換船に使われたスウェーデン籍の船の映像、捕虜交換の前に両親や子どもたちが数カ月を過ごした米国の収容所の場所の確認など、両親の軌跡を丹念に追い資料収集を続けてきた。2006年にはペルーを訪問し両親が働いていた学校を訪ねた。機転を利かせて両親を暴徒から救ってくれた家主を捜して礼を言いたかったが見つけきれなかった。

 「当時ペルーには多くの県系人が住み、捕虜交換要員の中に県人もかなりの数いたとされる。似たような体験をした方々と情報交換したい。ゆくゆくは本にまとめ英訳もして子や孫たちにも知らせたい」と語る。 朝子さんのメールアドレスはhokuson@bellsouth.net               (クリッシー悦子通信員)