指で眉間から鼻の頭をなぞり、高い鼻を表現するサインは「米兵」、歯を指せば「白人」、髪を指すのは「黒人」−。無音の中、母の身ぶりを頼りに沖縄戦下の南部一帯を逃げた。聴覚障がいのある友寄(旧姓・上原)美代子さん(85)=沖縄県浦添市=は今年5月、初めて戦争体験について証言した。「ずっと若い世代に戦争のことを伝えたかった。でも話すすべがなかった」。74年間抱え込んだ記憶を、信頼する聴覚障がい者の知人と手話通訳士の力を借りていま語る。(社会部・篠原知恵)

沖縄戦下で唯一、意思を通じ合わせることができたという母上原オトさん(左)と友寄美代子さん。「戦後すぐ、13歳ごろに撮影した」として大切に保管している

手話で飛行機を表現し、地上から低空飛行する多数の米軍機を目撃した10・10空襲の記憶を振り返る友寄美代子さん。思いがこみ上げると「アーッ」と声を絞り出した=5月27日、那覇市若狭(国吉聡志撮影)

沖縄戦下で唯一、意思を通じ合わせることができたという母上原オトさん(左)と友寄美代子さん。「戦後すぐ、13歳ごろに撮影した」として大切に保管している 手話で飛行機を表現し、地上から低空飛行する多数の米軍機を目撃した10・10空襲の記憶を振り返る友寄美代子さん。思いがこみ上げると「アーッ」と声を絞り出した=5月27日、那覇市若狭(国吉聡志撮影)

■「話すすべがなかった」

 那覇市山下町に生まれ、はしかの高熱で4歳のころ聴覚を失った。県立盲聾唖学校(当時)に進んだが戦争の影響で小学2年生で通えなくなり、手話を学べぬまま戦争に巻き込まれた。

 1944年、10・10空襲でかやぶき屋根の自宅は焼け落ちた。自宅近くの防空壕でしばらく暮らし、両親、兄、姉2人、親族、日本兵と共に首里(現末吉公園の拝所)へ。その後、玉城(現南城市)の鍾乳洞に向かった。

 はぐれないよう腰に巻き付けたひもを父に引っ張られながら、草むらや田んぼをひたすら移動した。「夜中も歩き続けて、とっても足が痛くてつらかった。父にせかされながら我慢して歩いた」

 一緒に逃げる中で、意思の疎通ができたのは母ただ一人。だがそれも身ぶり(ホームサイン)だけで互いに大まかな内容しか読み取れない。「もっと話そう」「もっと教えて」。母の袖をつかみせがむと、布で口を押さえられたり、人さし指を口に当てられたりしてたしなめられた。「自分の気持ちを伝えるのを我慢し続けた」

 当時12歳。目に飛び込む戦場の凄惨な光景、鼻に入る臭い、気配で伝わる大人の緊迫感も理解できる年頃だった。なのに今何が起き、身にどんな危険が迫っているのか把握できない不安が、一層の恐怖をかき立てた。

■隠れた墓、視覚も奪う

 1945年6月、当時12歳だった友寄美代子さん(85)は海軍司令部壕近くの亀甲墓の中に家族、親族、日本兵の約20人で隠れた。墓に広がる暗闇は、耳が聞こえない美代子さんにとって大半の情報源だった視覚さえも奪った。頑丈な墓で砲撃の振動も伝わらない。体に何かが触れるたびに飛び上がって驚きパニックに陥った。

 美代子さんの戦争体験は、主に視覚と感触と臭いに基づくものだ。

 米軍への降伏を拒み、墓内で日本兵と共に腹部に剣を突き刺して自ら命を絶った父の最期を、母に目を押さえられていた美代子さんは見ていない。記憶にあるのは、生前優しかった父の亡きがらに土をかぶせる母の姿と、近くで探した4輪の花を供えたこと。「手を合わせて目が腫れるまで泣いた」。米軍の影におびえ、父の遺体を残して墓を後にした。

 ある日の夕方。豊見城周辺で川のぬかるみに足がはまり抜けなくなった。よく見ると川底には人の塊があった。「死体と死体の間で足が抜けなかった。骨も浮いていた。このままこの死体のように死ぬと思った」

■聞こえぬ銃声、撃たれた親戚

 親戚の男性が足を引っ張りやっと抜けたと思ったら、男性はどこからともなくきた銃弾で倒れた。撃たれた中には同い年で仲良しの男の子もいた。死んだことは死体を触って分かった。血がべったり付いた手を葉っぱで拭い、また逃げた。

 「男だけ狙ったんだ」。怒りをあらわにした母の口がそう動いたように感じた。

 白い布を割き結んだ木の棒を掲げ、米兵に「降伏のしぐさ」をしたのは数日後の6月23日。トラックに乗せられ、名護の収容所に連れて行かれた。「米兵は自分の顔をさすって『耳が聞こえないんだね』というしぐさをし、新品のお菓子や洋服をくれた」。収容所で偶然出会ったろう者から手話のことを知った。

初めて語る戦争体験

■今こそ若い人に伝えたい

 手話を使えるようになったのは戦後。成人してろう者の団体で活動するようになってからだ。「世界が広がった」

 それまで断片的だった戦争体験の記憶は、手話を覚えた後、母から当時のことを教えてもらう中で少しずつ埋まっていった。一方で戦争の記憶で、今も深夜に目が覚め、悲しさと苦しさで眠れなくなることがある。

 同じ戦争を経験し苦しみを共有できる同世代のろう者以外とは、戦争の話題は避けてきた。年を重ねて手話もうまくできず、戦後学校に通えなかったため文章の読み書きもままならない。言いたいことを理解してもらえるか不安もあった。

 それでも82歳で亡くなった大好きな母の年齢を追い越した今、若い世代にこう伝えたい。「父を殺した戦争を恨んでいる。戦争はたくさんの人の命を奪う」

【識者の見方】ろう者の戦争体験、証言少ない

 証言を記録するため本紙は、美代子さんが通う就労継続支援B型事業所の職員で美代子さんの手話を理解できる聴覚障がい当事者と、那覇市の手話通訳士と共に体験を聞いた。昔ながらの手話も使う美代子さんの話を正確に聞き取ろうと、全ての内容を書き出した文章を、職員を通じて再度美代子さんが確認する態勢をとった。

 障がい者の沖縄戦に詳しい沖縄国際大学の安仁屋政昭名誉教授は「後世に語り継ぎたくても、戦時中の屈辱的な体験から語れず複雑な感情を抱える障がい者は多い。障がい者の証言そのものが少ない中で、ろう者の証言はさらに少ない」と話す。耳が聞こえず状況が把握しづらいため事実関係を記憶できずにいたり、「大変だった」とは言えてもどう大変かを語るのが難しかったりすると説明した。