「過去から学び、今日のために生き、未来に対して希望を持つ。大切なことは、何も疑問を持たない状態に陥らないことである」。これはノーベル物理学賞を受賞した、ドイツ生まれのユダヤ系物理学者、アルベルト・アインシュタインの名言の一つ。

 50代半ばからは、米ニュージャージー州のプリンストン高等研究所で研究を続け、76歳で生涯を終えた。アインシュタインは哲学者でもあった。彼の名言の内容を考えていると、ウチナー政治家の故・翁長雄志前知事を思い出す。翁長氏の「イデオロギーでなく、アイデンティティー」の提唱は、私たち海外のウチナーンチュの尊厳を奮い立たせた。彼の人格形成を考えると、やはり父親・翁長助静氏の影響が挙げられる。

 後に琉球政府立法院議員となる助静氏は終戦翌年の1946年、旧真和志村の村民が移動させられた現糸満市米須で、金城和信村長と先導して、散乱していた無数の遺骨を拾った。米軍にも要求した結果、納骨所造りの資材などがもらえ、石を積み上げて造ったという。本島南部出身で米国に住む空手の先生は当時10代。遺骨収集を体験した1人で、頭蓋骨に手を合わせ「ウンチケーサビラ(お迎え致します)」と言って拾った話をしてくれた。

 その塔は「魂魄(こんぱく)の塔」と名付けられ、当初は3万5千柱をまつっていた、と後で知った。

 私も5歳の頃、名護・東江区の団体遠征でバスに忍び込んで米須まで行ったことがある。石垣の納骨所は所々穴があり、中が丸見えだった。納められた遺骨は胸の辺りまであったように思う。今でも脳裏に、その当時のことが立体的に浮かぶのだ。

 父は39歳で志願し、牛島満中将の後を追って最期を遂げたらしい。名護から来た各家族は、遺骨代わりに石を何個か拾い持ち帰った。14歳だった兄と私も一緒に石拾いをしたのを覚えている。

 慰霊の日にいつも私が連想するのは魂魄の塔である。戦争を知らない後輩たちにはその建設の過程を知ってほしい。魂魄の塔は沖縄における最初で最大規模の鎮魂施設であり、軍民や国境、人種、敵味方を問わず戦没者をまつる精神は世界でもまれであろう。

 生き残ったシマンチュたちは「命どぅ宝」を強く抱いて生きてきた。それが沖縄の美徳だからである。摩文仁の戦跡回りは中学生の修学旅行に今はもう含まれていないと聞いたが、とても気になる。  昔の事実が風化されつつある現代、昔を学び、今に生き、希望を持ち、そして「Why?」と疑問を常に抱きながら、まじゅん、前進しよう!(てい子与那覇トゥーシー)=毎月第4月曜日掲載

(写図説明)自宅の庭には例年通り、さまざまなハイビスカスが咲いた。慰霊の日が近くなると、花を見て、ウチナーとのつながりを感じ取っている