実習船「翔南丸」に救出を求めて横付けしたベトナム難民の木造船。赤ちゃんを含む105人がひしめき合い、救助する船を待ち続けていた=1983年8月8日 (宮城さん提供)

 「船長がいなかったら今の私はいない。長年かかったが、直接会ってお礼を言いたい」。東京都千代田区でベトナム料理店を営む南雅和さん(50)は、7月13日に沖縄へ行き、「命の恩人」との“再会”を果たす。その相手は、沖縄県立沖縄水産高校の実習船の船長を30年以上務めた宮城元勝さん(75)=那覇市。1983年8月、南さんらは難民となり祖国ベトナムから木造船で海に逃れているところを、宮城さんらが乗る沖縄水産高校の実習船「翔南丸二世」に救助された。「生き返った日」という救助の日から約36年。南さんは、命をつなげてもらった証となる娘(17)と一緒に、これまでどう生きてきたかを宮城さんに報告する考えだ。                        

東京でベトナム料理店を営む南さん。36年前にベトナム沖で沖縄の実習船に救われた。

 日本国籍を取得した南さんのベトナム名は、ジャン・タイ・トゥアン・ビン。宮城さんが保管している当時の救助者名簿にはローマ字表記で年齢とともにつづられてれている。

当時、翔南丸内で聞き取りした難民の名簿。南さんの名前も記されている。

 1983年8月4日、南さんはサイゴン(現ホーチミン)市郊外の川辺から船に乗り、沖合を目指した。長さ13・2㍍、幅3・7㍍の小さな木造動力船の船内には、1歳未満の赤ちゃん3人を含む50代までの男女105人がひしめき合っていた。

■決死の覚悟の逃避行

 ベトナム戦争が終結した75年以降、ベトナムなどインドシナ3カ国は社会主義体制へと変った。新体制になじめなかったり、旧体制側にいて迫害を受ける恐れがあったことなどから、中華系を中心に大量の人々が自国から脱出した。80年代にかけて「ボートピープル」などと呼ばれ、漂流中の死亡や受け入れ先などを巡って問題となり、国際的に注目されたインドシナ難民である。 

 南さんもその一人だった。親米の旧南ベトナム政府の役人だった父親が、75年4月のサイゴン陥落時に新体制(北ベトナム)側に逮捕され、南さんの家族は離れ離れの暮らしを余儀なくされていた。「新体制の下では将来に希望が持てず、身の危険も感じる日々だった」。まだ14歳の少年だった南さんは、これから先の人生を考え、国を出ることを決めた。

 外洋で救助してくれる船をあてにした危険な逃避行。着の身着のままの人たちがひしめく木造船内は、足を伸ばす余地もないほどぎゅうぎゅう詰めだった。食料は乏しく、燃料も3日で底をついた。水もなくなり雨水では足りず、他人の尿を飲んで渇きをしのぐ人もいた。天候一つでいつ命を失ってもおかしくない極めて危ない航海だった。

■不審な船に警戒も

 船影を見つけては男たちが甲板に出て、たいまつなどでサインを送り続けた。気付かなかったのか、気付いていたとしても、なのかは分からないが、いくつもの船がそのまま通り過ぎていった。死を覚悟した上での祖国脱出とはいえ、船上の過酷な状況に皆、押し黙って耐えて「その時」が来るのを待っていた。

 そんな暗い船そうの空気に光りが差したのは、4日目の8月8日早朝だった。進んで来る船に、木造船はたいまつを振った。先に見据えていたのが翔南丸だった。

 宮城さんの記録によると、木造船を発見したのは同日午前6時半。インド洋でのマグロはえ縄漁など1ヵ月以上の実習を終えた翔南丸は、沖縄に向けホーチミン市の南南東400㌔の南シナ海を航行していた時だった。

1983年に難民を救助した翔南丸二世(沖縄県教育庁実習船運営事務所「回顧三十年」より)

 当直の一等航海士が左舷前方のもやの中に点滅する明かりを発見。通常のSOS信号でも注意喚起信号でもないため、不審に思った航海士は船長を起こし、報告した。

 「海賊船や悪い船かもしれない」。正体をいぶかり緊張しながら船を進めると、もやが次第に晴れてきて、船体がはっきりと姿を現した。近づいて見た小さな木造船の甲板には、女性や子どもも船内から次々に出てきた。「ベトナム難民だ」。宮城さんはそう即断し、減速させた。