■難民が甲板を「占拠」

 木造船は翔南丸に接近し右舷に強引に横付けすると、難民が競うようによじ登ってきた。手すりを飛び越えて乗船し、眼下の木造船にいる女性や子どもを引き上げる者もいた。宮城さんが「危険だから落ち着くように」と身ぶり手ぶりをまじえ制止してもきかず、甲板は一瞬にして難民で埋め尽くされた。「救助というより、強制占拠といったほうが実態に近かった」。ただ、船に乗り込んだ人のどの顔も、何かにすがるような必死の形相だったことが深く印象に残った。宮城さんは「ものすごく追い詰められた人たちなんだなと思った」と話した。

翔南丸に横付けした南さんらが乗っていた木造船。手すりを超えて一斉に乗り込んできたという=1983年8月8日 (宮城さん提供)

 一方、南さんは「『助かる』と皆元気になって、一気に力が出てきた」と当時を振り返る。ほかの難民にまじって必死に乗り込んだ。「SHONAN MARU」。登りながら見えた船体の文字が脳裏に焼き付いていた。

■次第に打ち解ける船内

 救助されたのは男性63人、女性42人の計105人。翔南丸には実習生や乗組員ら69人が乗り込んでおり、合計すると最大搭載人数(75人)の倍以上に膨らんでいた。

 翔南丸は、救助はしたものの寝食をどうするかの問題に直面した。実習生を動員して甲板上に天幕を張り、ベニヤ板で床をこしらえて休ませた。後に台風の影響で波風が強まった際には、全員を船内に入れ、学習室や食堂、通路にまで収容し休養させた。

難民が乗りこんだ翔南丸の甲板には日差しや風雨を避けるため天幕が張られた。床にはベニヤ板が敷かれ、休養できるようにした=1983年8月 (宮城さん提供)

 実習生たちはTシャツやタオル、シャンプー、歯磨きなど余分に持っていた日用品をすすんで難民に分けた。食事も日本人、ベトナム人でたがえることなく同じメニューを提供。節食節水しながら、なんとか乗り切る腹づもりだった。

 宮城さんのメモには「米、副食とも残り少なくなるも、那覇まで節食できる」とあり、難民については「不眠と不安からさめ笑みを浮かべ」「中華料理が自慢のコック長の三度の食事にご満悦」などと、“共同生活”が次第になごんでいった様子が書かれている。船側の親身な対応に難民らも好感し、次第に関係も打ち解けていった。

難民の乗船後の様子を書き留めた宮城さんのメモ。「緊張感がほぐれ」「三度の食事にゴマンエツ」などと打ち解けていった状況が記されている

 一方、事態が伝えられる沖縄側では、船側の人数を大きく上回る難民の乗船に、実習生が動揺してはいないか、何かトラブルや事件が起こりはしないかとの不安や懸念も上がっていた。

 宮城さんらは船の運営事務所や学校などと連絡をとり、難民をどこに連れていけばいいのかの指示を仰ぎながら航行を続けた。「不測の事態が起こってはならない」と、日本側は難民の早期の下船を模索。結局、日本とフィリピンの政府間交渉で、フィリピンでの受け入れが決まり、船は12日未明、マニラに入港した。

南さんたちをフィリピン・マニラまで連れていった翔南丸。難民はマニラで下船した=1983年8月12日 (宮城さん提供)

 「皆さんのこと、一生忘れない」。下船時、船員や実習生の手を固く握ったり、抱きついて頰ずりしたり、両手のひらを合わせて礼をするなど、全身で感謝の意を表して別れを惜しんだという。マニラを離れた翔南丸は17日、無事、那覇に帰港した。

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