原爆忌74年に思う 沖縄の被爆者たち(1)

 「あんな戦争さえなければ…」。宜野湾市の女性(76)は、声を震わせながら真新しい被爆者健康手帳を見つめる。74年前、長崎に原爆が投下された時は2歳。記憶はほぼないが、本やメディアで惨状を知り、差別や偏見を恐れて被爆の事実を隠すように生きてきた。夫(75)にも苦しみを明かせず、手帳をようやく取得したのは今年2月。「被爆者の痛みは癒えない。原爆が憎い」。胸の内を初めて語り、核廃絶を訴える。

2月に初めて取得した真新しい被爆者健康手帳を手に、自分や家族を苦しめた原爆への思いを語る女性=宜野湾市内(画像の一部を加工しています)

 1942年、長崎市大浦町で生まれた。父は徴兵されビルマで戦死。母は宮古島出身で、後に沖縄から疎開した自分の妹ら親族を呼び寄せ共に暮らしていた。

 45年8月9日の原爆投下時は、爆心地から約6キロの市上戸町の自宅にいた。身内にけが人はなく、翌日から母と伯母は被害の激しい宝町や寿町に出掛け、遺体の処理や救護に携わったと聞いた。

 「私をおぶって死体の上を歩いたとか、焼け跡から食糧を集めたとか。あまり話さず、本当に大変だったと言うぐらいだった」

 戦後、沖縄に引き揚げてからも、母が被爆について語ることはほとんどなかった。ただ8月になると、言葉少なに振り返るつらそうな表情が忘れられない。

 約7万4千人の死者を出した長崎の惨劇は、小中学生のころに本や絵で学んだ。強く印象に残ったのが、被爆者への差別や偏見のすさまじさ。原爆の話は、避けるようになった。

 米軍統治下の沖縄は本土より約10年遅れで旧原爆医療法が準用され、67年に被爆者健康手帳の交付が始まった。母や伯母ら親族はすぐに取得したが、女性は「絶対に受けたくない」と取得を拒んだ。

 実際に偏見や差別にさらされた体験はない。ただ、幼少期に刻まれた恐怖心は拭うことができなかった。保育士として働き、研修で何度か長崎へ行く機会はあったが、原爆資料館には「涙が出て立ち寄れなかった」。

 心境に変化が現れたのは最近だ。被爆した過去に目を背けようとしても、長年つきまとう原因不明の目まいや吐き気。年を重ねる中で「現実を受け止めて、戦争や原爆の悲劇を繰り返さないように祈りたい」と考え始めた。

 母は2001年8月9日に他界。伯母のうち1人は子どもを出産直後に死去し、残る1人は最近、脳梗塞で倒れた。いずれも被爆の影響かははっきりしないが、人生に影を落としたのは間違いない。「とにかく望むのは核廃絶。戦争さえなければ、こんなに苦しまないでよかったはず」(社会部・新垣玲央)

 広島と長崎で被爆し、被爆者健康手帳を所持する県内在住者は3月末現在で132人。記憶の継承が課題となる中、沖縄の被爆者はどう生き、原爆忌74年に何を思うのか取材した。