■原爆忌74年に思う 沖縄の被爆者たち(2)平良正男さん

27歳のころの故平良恵正さん。原爆投下前の広島で撮影したとみられる(平良正男さん提供)

父恵正さんの証言が記録された書籍に初めて目を通し、「父と母は戦後も大変苦しんでいた」と話す平良正男さん=那覇市内

27歳のころの故平良恵正さん。原爆投下前の広島で撮影したとみられる(平良正男さん提供) 父恵正さんの証言が記録された書籍に初めて目を通し、「父と母は戦後も大変苦しんでいた」と話す平良正男さん=那覇市内

 「全滅したという情報があったので、すぐ広島へと急いだ。無数の死体が転がる中をリュックを背負って妻や子を探し回った-か。命がけですよね…。こんな話、聞いたことなかった」

 那覇市の平良正男さん(75)は7月、2007年に92歳で他界した父恵正さんの証言が収められた書籍を初めて手に取った。妻と当時1歳で被爆した長男正男さんの身を案じる父の思いや、戦後も続く苦悩を記した短い文章。何度も読み返して、言葉を詰まらせた。

 広島県呉市生まれ。1945年8月6日に原爆が投下された後、両親が当時1歳の自分を抱えて原爆ドーム近くを通って門司港まで長い道のりを歩いたのは知っていた。古里の沖縄県宮古島へ引き揚げ、食糧難や病に苦しんだことも。ただ、被爆時の詳細は聞かなかった。

 戦後の原爆報道で、幼心に染み付いた恐怖心が自身の中にある種の「偏見」を生んでいた。「若い時は特に、あの恐ろしい場所にいたこと、自分がその(被爆者)の一員だと知られたくなかった」。被爆者健康手帳を紛失しても40代まで再取得せずそのまま。被爆体験と距離を置いていた。

 爆心地から約2キロの広島市松原町で母と共に被爆。父は当時、日本郵船の海軍病院船「朝日丸」の料理長で、原爆投下直後、福岡県門司市(現北九州市)の会社から汽車もない中、駅に寝泊まりして広島にたどり着いた。証言集には、妻子の無事を確認して門司へ戻ると足のかかとが腐り出し、翌年に引き揚げた後も病に苦しむ姿も記している。

 「よく足が痛いと言ってベルトのような物を巻いていた。座骨神経痛や脳神経まひに苦しんでいた」と正男さん。食糧難で島の生活は貧しく、幼い頃から畑仕事など重労働も手伝った。病院に行く金はなく、農作業に必要な牛や馬まで売り払ったのを覚えている。

 82歳で亡くなった母も原爆の影響か、顔に斑点ができ、顔面神経痛に悩んでいた。「親はどれだけ苦労していたのか…。生き延びて、僕らのために頑張ってくれて感謝でいっぱいです」

 戦後74年。米軍統治下にあった沖縄は遅れたが、広島と長崎の被爆者は国の補償がある。一方、いまだ補償を認められない戦争被害者も多くいて、戦後処理は終わっていないと思う。また、北朝鮮の問題や米国の動きなどには、核軍縮への道のりが遠く感じている。

 「各国にらみ合いの時代。核のない平和な世界を求め続けていても、なかなか実現しない。これで大丈夫とは、言えないですよね」(社会部・新垣玲央)

広島と長崎で被爆し、被爆者健康手帳を所持する県内在住者は3月末現在で132人。記憶の継承が課題となる中、沖縄の被爆者はどう生き、原爆忌74年に何を思うのか取材した。