遺族の戦後 対馬丸撃沈75年(1)高里シズ子さん

 「四角いいかだにしがみつく母の背中におんぶされ、水が飲みたい、ひもじいとつぶやき続けた」

対馬丸沈没時、いかだにしがみついて命を助けてくれた母・キヨさんの遺影を手に当時を振り返る高里シズ子さん=10日、金武町の自宅

母キヨさんが生計を立てるため豆腐作りに使っていた石臼を取り出し、思い出を語る高里シズ子さん=10日、金武町の自宅

対馬丸沈没時、いかだにしがみついて命を助けてくれた母・キヨさんの遺影を手に当時を振り返る高里シズ子さん=10日、金武町の自宅 母キヨさんが生計を立てるため豆腐作りに使っていた石臼を取り出し、思い出を語る高里シズ子さん=10日、金武町の自宅

 戦争が迫る故郷を離れ、家族4人を乗せた対馬丸は突如沈没し、兄姉を海底に飲み込んだ。3日間の母との漂流の記憶は、75年が経過した今も、当時4歳だった高里シズ子さん(79)=金武町=の胸を締め付ける。

 「生きていればみんなで過ごせたはず。今でも優しかった兄姉に会いたい」

 1944年7月、美東国民学校(沖縄市)に通う姉のヨシ子さん=当時(11)=と兄の真牛(しんぎゅう)さん=同(8)=は「いよいよ戦争が沖縄にやってくる」との話を先生から聞いた。大阪に出稼ぎで父親が不在の中、子どもたちは母のキヨさんと相談し、一家で疎開を決意した。

 8月21日、那覇港に停泊する対馬丸に乗船すると学童疎開の兄姉、一般疎開のシズ子さんと母は別々の部屋へ。長崎へ向け出港後、1600人余りの疎開者が乗る船内は窓一つなく、蒸し風呂状態に。一家とは別に乗船し、偶然相部屋となった伯母に会い「暑いし、船酔いするから甲板に上がりなさい」と促された。

 22日夜、母と真っ暗な船外へ出た時だった。突然、爆音と衝撃が船体を襲い、同時にシズ子さんらは海へ放り出された。気が付くと体は帯で巻き付けられ、母がシズ子さんを背中に乗せて必死にいかだにしがみついていた。

 漆黒の闇に包まれた海へ取り残され、かろうじて見える周囲には溺死した大人の死体が浮く。母は「ヨシ子、真牛」と叫ぶが返事はなく、伯母の姿も見えなかった。

不明の兄姉と夢で約束「明日もご飯を食べようね」

 対馬丸の沈没後、救助船に引き上げられるまで3日3晩、海上での漂流は続いた。暑さと空腹の中、当時4歳だった高里シズ子さん(79)=沖縄市=は、海に落ちないようギュッと母の背中にしがみついていた感触を今でも強く覚えている。宮崎県へ疎開した2人は寺を住居に新たな暮らしを始めた。

 ある晩、シズ子さんが眠りにつくと疎開先を訪れる兄姉が夢に現れた。念願の再会に喜び、3人でたくさんのごちそうを囲んで「明日もご飯を食べようね」と笑顔で約束したが、二度と現れることはなかった。シズ子さんは「最後に会いに来てくれたんだろうね」と涙を流した。

 終戦後、父との連絡が途絶えたまま沖縄本島に戻り、母は再婚。戦後の貧困生活で生計を立てる母の豆腐作りを手伝うため、シズ子さんは小学校6年で退学し、沖縄市内で豆腐やにがりを売り歩いた。

 だが、母から亡くなった兄姉の話を聞かされたことはほとんどなかったという。「子ども2人を亡くして生き残った。今考えると大きなショックを引きずり、後悔の念にかられていたのではないか」と心情を推し量る。

 母の仕事を支えながら23歳で盛友さん(79)と結婚。夫の実家がある金武へ移住し、5人の子どもに恵まれたシズ子さんだが、対馬丸が沈没した8月22日に近づくと「手を合わせに行こう」と慰霊祭へ出席する母の言葉を思い出す。「98歳で亡くなるまで、母は欠かさず慰霊祭に参加していた。失った子どもに会いたい気持ちが強かった」と生前の思いを振り返る。

 対馬丸が撃沈されて75年が経過した今も兄姉と伯母の遺体は発見されていない。「母や兄姉に守られて私はここまで生きてこられた。75年はひとつの節目。生きることでこの悲惨さを少しでも誰かに伝えたい」と涙を拭った。(社会部・砂川孫優)

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 国の疎開命令で学童ら1788人が乗船した疎開船対馬丸が、米軍の魚雷攻撃で沈められた日から、22日で75年を迎える。氏名が判明しただけで1484人(18年8月時点)に上る犠牲者を出した対馬丸の撃沈とは何だったのか。生存者と遺族が歩む戦後から、対馬丸を伝える意味を考える。