遺族の戦後 対馬丸撃沈75年(2)

 赤や黄、緑色。古波蔵伸子さん(91)=豊見城市=が、色とりどりの鶴をゆっくりと折り上げていく。8月の対馬丸記念館の慰霊祭を前に、40年余り続けてきた営みだ。「折っている時は弟を思う時間。生きていたら今は何歳で孫は何人いるかなと考える」と話す。

古波蔵伸子さんの弟、又吉常幸さん(対馬丸記念館提供)

今年折っている鶴を手に弟の思い出を振り返る古波蔵伸子さん=10日、南風原町

古波蔵伸子さんの弟、又吉常幸さん(対馬丸記念館提供) 今年折っている鶴を手に弟の思い出を振り返る古波蔵伸子さん=10日、南風原町

 75年前、疎開船「対馬丸」で送り出した弟、又吉常幸(じょうこう)さん=当時(15)=を亡くした。常幸さんは8人きょうだいの長男。二つ違いの姉弟でよく遊んだ。1944年8月21日、常幸さんは古波蔵さんが直した服を喜んで着て対馬丸に乗船した。

 対馬丸出航後、古波蔵さんも祖父母ら5人で別の船に乗り同年、熊本へ疎開。到着後、常幸さんを迎えに1人で宮崎の学校に向かった。だが弟の姿はなく、洋服や下着が入ったままの常幸さんの荷物が届いていた。熊本に持ち帰ると、祖父は「なぜ常幸を探してこなかった」と怒鳴った。

 ただ古波蔵さんにはなんとなく、弟と会うことができないかもしれないとの予感があった。確信に変わったのは、疎開先で対馬丸が沈没したといううわさ話を聞いたときだった。だが祖父はうわさ話も信じなかった。「それから家族できちんと対馬丸の話はしたことない。亡くなったことを受け入れられなかったのではないか」と振り返る。

 終戦後に沖縄に戻り、戦後は焼け野原に建てたバラック小屋から生活が始まった。結婚後、5人の子どもに恵まれ、子どもに不自由させたくない一心で仕事を掛け持ちし、睡眠3時間もいとわず働き続けた。

 折り鶴のきっかけは、生活が落ち着いた頃にやってきた。対馬丸の三十三回忌の頃で、海上慰霊祭に母と参加したときだ。穏やかだった海が、船が沈没した付近の鹿児島・悪石島に近づくと、急に荒れた。立っていられず、古波蔵さんは船にしがみついた。

 「常幸が、連れて帰ってくれと泣いている」。そんな思いが、すっと胸に湧いた。戦後、初めての気持ちだった。「何か弟にできることを」と、その年から、毎年千羽鶴を1人で折るようになったという。

 古波蔵さんは今、箱に折り紙を備え持ち、日常の空いた時間に鶴を折り、弟を思う。「母ちゃんは102歳で死ぬまで対馬丸のことを口にしなかった。私も今でこそあの時代を思い出す余裕ができた。戦後、それだけの時間が必要だったと、今だから分かるんですね」と静かに語る。(社会部・國吉美香)