社説

社説 [ 昭和天皇「拝謁記」] 今に続く「捨て石」発想

2019年8月21日 08:39

 戦後、初代宮内庁長官を務めた故田島道治が昭和天皇の言葉や、やりとりの様子を克明に記した「拝謁(はいえつ)記」が見つかり、内容の一部が公開された。

 昭和天皇が戦争への反省を表明しようとしていたことや、改憲による再軍備の必要を主張していたことが明らかになった。

 拝謁記は田島が、宮内庁(当時は宮内府)長官に任命された翌年の1949年2月から退官した53年12月の間に昭和天皇とのやりとりを書き留めたものだ。手帳やノート18冊分になる。

 その一部を、保管していた遺族から提供されたNHKがメディアに公表した。

 昭和天皇との対話を詳細に記録した貴重な資料の中で目を引くのが、基地問題に触れた記述だ。

 「全体の為ニ之がいゝと分れば 一部の犠牲ハ已(や)むを得ぬと考へる事、その代りハ 一部の犠牲となる人ニハ 全体から補償するといふ事ニしなければ 国として存立して行く以上 やりやうない話」(53年11月)とある。

 53年といえば、米軍統治下にあった沖縄では、米国民政府の「土地収用令」が公布され、「銃剣とブルドーザー」による土地の強制接収が始まったころだ。

 本土でも米軍基地反対闘争が起こっていた。反基地感情が高まり、本土の米海兵隊の多くが沖縄に移転した。

 「一部の犠牲」が沖縄に負わされる形で、今も、国土面積の0・6%にすぎない沖縄県に米軍専用施設の約70%が固定化されている。

 国の安全保障を沖縄が過重に担う現在につながる源流ともいえる言葉だ。

    ■    ■

 戦時中、沖縄は本土防衛のための「捨て石」にされた。

 47年9月、昭和天皇が米側に伝えた「天皇メッセージ」では、「アメリカによる沖縄の軍事占領は、日本に主権を残存させた形で、長期の-25年から50年ないしそれ以上の-貸与(リース)をする」と、昭和天皇自らが、沖縄を米国に差し出した。

 今回明らかになった「一部の犠牲はやむなし」の思考はこれらに通底するものだ。

 米軍の駐留について「私ハむしろ 自国の防衛でない事ニ当る米軍ニハ 矢張り感謝し酬(むく)ゆる処なけれバならぬ位ニ思ふ」(53年6月)と語ったとの記録もあり、今につながる米国とのいびつな関係性を想起させる。

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 昭和天皇は、日本の独立回復を祝う52年5月の式典への言葉に「私ハどうしても反省といふ字をどうしても入れねばと思ふ」と語ったという。 「戦争を御始めになった責任があるといはれる危険がある」と当時の吉田茂首相に反対され、削除された。

 昭和天皇がこのときに戦争責任を認め、反省を表明していれば、植民地支配したり、侵略したアジア諸国に対する戦後の外交も違ったものになっていたのではないか。

 拝謁記で明らかになった事実は、歴史の空白を埋める新たなピースだ。戦争責任を巡る反省は今なお日本の問題として目の前にある。

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