遺族の戦後 対馬丸撃沈75年(4)

 〈少女の夢は海の底へ/赤い空仰ぎ見て何を思い何を願わん/二度と起きぬ悲しみ〉

対馬丸の悲劇と祖母の思いを込めた歌詞「島々へ」について語る奥今日子さん=18日、大阪府(提供)

歌「島々へ」の試聴はQRコードから

対馬丸の悲劇と祖母の思いを込めた歌詞「島々へ」について語る奥今日子さん=18日、大阪府(提供) 歌「島々へ」の試聴はQRコードから

 1944年に沈没した学童疎開船「対馬丸」の犠牲者をしのぶ歌「島々へ」は2000年、大阪府出身の奥今日子さん(44)=石垣市=が作詞作曲した。対馬丸に乗っていた妹を亡くした祖母の新垣勢津子さん(享年84)の心情に思いをはせ、事故を風化させない決意を込めた。

 地域の平和集会などで発信し続ける奥さんは「対馬丸や沖縄戦を知る人が減っている。歌が沖縄の事実を伝える声になってほしい」と希望を託す。

 祖母の勢津子さんは南風原町出身。祖母が対馬丸の遺族だと知ったのは奥さんが25歳の頃。偶然テレビで対馬丸のドキュメンタリーを見ていた時、学童ら疎開者を乗せた船が沈没する再現映像に「信じられない」と嘆くと、母が「おばあちゃんの妹も乗っていたんだよ」と告げた。

 母によると、祖母の妹恵美子さんは当時12歳。学童疎開のため1人で乗船し、事故に巻き込まれた。慰霊祭のニュースをテレビで見ていた祖母が「足腰が丈夫だったら手を合わせに行きたい」とぽつりとつぶやいたという。

 胸の内にしまい込んだ祖母の思いに心打たれ、アマチュアミュージシャンだった奥さんは無我夢中でペンを握った。ノートには妹を失った祖母の思いと海に沈んだ疎開者の悲しみをつづり、曲を付けて当時住んでいた大阪の路上で歌い続けた。

 32歳で石垣市に移住。歯科衛生士として働く傍ら、地域の要望を受けて昨年から与那国島出身の歌い手・大城謙さんらと市内の小学校が開く平和集会に参加。歌を通して対馬丸の悲劇を伝えている。

 継承活動をする中で心残りがある。07年に亡くなるまで祖母に対馬丸の詳細について聞けず、歌を聴かせることもできなかった。母から「昔のことを思い返すから」と強く止められて断念したからだ。

 「仮に祖母が対馬丸に乗船していたら私はこの世に生を受けていないかもしれない。命をつないだ祖母のためにも歌を聴いてもらいたかった」と奥さん。

 対馬丸沈没から75年。これまで那覇市にある慰霊碑「小桜の塔」や対馬丸記念館に何度も足を運んできた。「歌を通して対馬丸の悲劇を紡ぐのが私の責任。祖母が語らなかった悲劇を次世代に残していく」と誓った。(社会部・砂川孫優)