学童疎開船「対馬丸」に那覇国民学校の引率教師として乗船した糸数裕子(みつこ)さん(94)=那覇市=は、一緒に乗った担当学級の生徒13人全員を亡くした。今でも、一人一人の顔がはっきりと浮かぶ。

「子どもたちが海に投げ出された光景は今でも目に焼き付いている」と話す糸数裕子さん=9日、那覇市

■生き残った教師

 船に乗った日、大はしゃぎの生徒たちは「初めて大和(本土)に行ける」「残波岬が見える!」と喜んでいた。75年がたち、その生徒たちが夢に現れ「先生、全員で迎えにくるからね。待っててね」と声を掛けてくる。「家族は『そんな早く迎えに来ないよ』と言ってくれるけど。私だけこんな長く生きてしまって、早く迎えにおいでと願ってるんです」と話す。

 対馬丸に乗らなかった生徒も、撃沈から1カ月余り後の10・10空襲で犠牲になった。糸数さんは漁船に救出され、終戦後に帰沖。戦後に生徒の親と面会したことはなく、今でも誰かに「なぜ先生だけ生きているの」と言われるのが怖くて、那覇の市街地を歩く気にはなれないという。

 それでも、学級長だった女生徒宅を訪ねようと、10年ほど前に記憶を頼りに家を探し歩いたことがある。

 女生徒は気が利き、19歳だった新任教師の糸数さんが頼りにする存在だった。「生きているうちにせめてトートーメー(位牌(いはい))に手を合わせることは許されないだろうか」。そんな気持ちからだった。

■私だけ生きて申し訳ない

 見覚えのある一軒家が見えたとき、思わず近所の人に女生徒の氏名を伝えた。名字は合っていた。けれど「あそこの娘さんは戦争で死んでいるからいないと思う」と伝えられ、足がすくんだ。家を見つめるだけで精いっぱいだった。

 対馬丸への乗船許可を取ろうと、「疎開は安全」と生徒の家族を説得して回った。学校からは「全て国がやるから安心と伝えるように」と言われていた。戦後、教員だった父の学校には、生徒の親が「子どもを返してくれ」と毎日のように来た。

 今、糸数さんは足が痛み長くは歩けない。ひっそりと参加してきた慰霊祭にも今年の参加は断念した。

 「75年だろうと何年たとうと、いつだって対馬丸のことは忘れられない。私だけ生きて申し訳ないという気持ちも、消えることはないですよ」

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 アジア・太平洋戦争中の1944年8月、那覇から長崎へ向かっていた学童疎開船「対馬丸」が米潜水艦の魚雷攻撃に遭い、鹿児島県悪石島沖に沈んだ。判明しているだけで1500人近くが亡くなった悲劇から22日で75年。生存者や遺族は、今も海底に眠る犠牲者を悼む。(社会部・國吉美香)

■きょう那覇で対馬丸慰霊祭

 対馬丸記念館(那覇市若狭)近くの慰霊碑「小桜の塔」では22日午前11時から、慰霊祭が開かれる。同記念館は木曜休館だが、同日は臨時開館する。企画展示「対馬丸75年の想い」は9月29日まで。