学童疎開船「対馬丸」の悲劇を伝える那覇市若狭の対馬丸記念館は22日で開館15年を迎える。生存者の上原妙さん(88)=那覇市=は、早期建設を求め奔走した1人。対馬丸で多くの友人を失い、兄は南洋戦で、姉もひめゆり学徒隊として、それぞれ犠牲になった。年を重ね、記憶がおぼろげになっても「生き残った者の責任」として、命と平和の尊さを訴える。(社会部・新垣玲央)

対馬丸の体験を語り、「生き残った者として責任があった」と記念館建設に奔走した当時を振り返る上原妙さん=那覇市内

対馬丸生存者 上原妙さん(88)

 乗船時は13歳で、那覇国民学校高等科1年。米軍の魚雷を受けた8月22日夜、甲板で寝ていると髪の毛を踏まれ、逃げ惑う人々に気付いた。「左舷に飛び込め」と叫び声が響き、押し出されるように漆黒の海に飛び込んだ。

 泳ぎができず、いかだの縄を必死で捕まえた。親や先生を呼ぶ声が聞こえる。一緒に飛び込もうとした友人とはぐれ、どこに誰がいるかも分からないまま漂流。救助まで三日三晩、先の見えない恐怖に泣いた。

 いかだに乗れずに流された子連れの女性のことが忘れられない。「おんぶされた赤ちゃんは、だらーんとしていた。恐くて何もできなかった」

 戦後、沖縄に引き揚げてから、5歳上で沖縄師範学校女子部だった姉美恵さんの死を知った。亡くなった場所も分からず、遺骨は見つかってない。対馬丸に乗船する際に涙で見送ってくれた「優し過ぎるぐらい優しい姉」だった。

 3人きょうだいの末っ子。21歳で徴兵された兄佑幸さんも南洋で戦死したが、母は戦争のことをあまり話さなかった。上原さん自身、対馬丸で犠牲になった学童らの遺族に「申し訳ない」と、60代まで表だって語れなかったという。

 複雑な思いを抱えながら語り部を始め、2001年には対馬丸遭難者遺族会(同年7月からは財団法人「対馬丸記念会」)会長に就任。対馬丸記念館が開館する前年の03年まで務め、国の慰謝事業として1999年から計画された記念館の早期建設を遺族らと訴えた。

 「生かされたから。亡くなった方々の分までやらなければと、無我夢中だった」と繰り返し、こう願う。「戦争とは何かを分かってほしい。記念館も慰霊祭も、そのためにある。戦争がもたらす悲劇を、みんなが感じて考えてくれたらいい」