■遺族の戦後 対馬丸撃沈75年(5)

長姉の高良美智子さん

次姉の澄子さん

双子の兄・徳太郎さん

双子の兄・次郎さん

対馬丸沈没で亡くなった姉や兄たちの供養を続ける平安山登美子さん=19日、那覇市与儀

長姉の高良美智子さん 次姉の澄子さん 双子の兄・徳太郎さん 双子の兄・次郎さん 対馬丸沈没で亡くなった姉や兄たちの供養を続ける平安山登美子さん=19日、那覇市与儀

 疎開船「対馬丸」撃沈で亡くなった子どもたちを慰霊する小桜の塔(那覇市若狭)。那覇市の平安山登美子さん(78)は毎年、清明祭に塔を訪れ、供養を続けている。子どもが好みそうなジュースやお菓子を供え、手を合わせる。「塔では姉や兄たちに会えた気持ちになる」

 1944年8月21日、那覇を出港した対馬丸に長姉の高良美智子さん=当時(18)、次姉澄子さん=同(13)、双子の兄徳太郎さん=同(11)=と次郎さん=同(11)=の4人が乗り、全員が亡くなった。

 7月にはサイパンが陥落。「次の決戦は沖縄」と言われ、国策で沖縄から子どもらの疎開が決まった。「疎開船に乗り本土へ行けば助かる。せめて子どもたちだけでも生きてほしい」。両親はそう願って送り出したはずだった。

 3歳だった登美子さんは亡くなったきょうだいの記憶がほとんどない。美智子さんはしっかり者、澄子さんは琉球舞踊が上手、やんちゃな徳太郎さんにおとなしい次郎さん。母オトさんは折に触れ、姉兄のことを語って聞かせた。

 54年に小桜の塔ができると、清明祭には登美子さんを必ず連れていった。「お姉さんたちを決して忘れてはいけない」。オトさんはいつも、そう繰り返した。

 登美子さんには幼少時、冬場になると身に着けるベストがあった。美智子さんの手編みで凝ったデザインがお気に入りだった。「お姉さんの温かさを感じていたのかもしれない」。ほつれると、オトさんがかぎ針で編み直してくれた。

 登美子さんはオトさんの泣く姿を見たことがない。「もう悲しみが涙を通り越していたのでしょう」とおもんぱかる。ただ晩年、一人になった時だけ、4人の写真に静かに話し掛けているオトさんを見た。

 「私も親になって、子ども4人を同時に失うことがどれだけ大変なことだったかと思う」。今でも、母の姿を思い出し胸が締め付けられる。

 オトさんは20年ほど前、100歳の長寿を全うした。「海の中でぬれて寒かったはず。天国で着替えさせてあげたい」。4人分の真新しい着替えを準備し、一緒にひつぎへ入れるよう言い残した。

 沈没から75年。登美子さんは今、年を重ねるごとに、母のつらさがより分かるようになってきたという。「親の代わりに供養する」。強い気持ちで、これからも小桜の塔へ向かう。(社会部・下地由実子)