アジア・太平洋戦争の最中の1944年8月22日、国の疎開命令で学童ら1788人が乗船した疎開船「対馬丸」が、米潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃で沈められた日から22日で75年を迎える。44年7月、サイパン島で日本軍が玉砕し米軍の沖縄上陸が必至と判断した政府は、沖縄本島などから本土へ8万人、台湾へ2万人を送る疎開命令を沖縄県へ伝えた。疎開は軍の食料を確保し、戦略の足手まといになる女性や子どもらを立ち退かせるのが目的だった。

体験者の上原清さんが描いた沈没する対馬丸

 対馬丸事件の以前にも、沖縄関係者を乗せた船が周辺海域で17隻沈められていたが、軍事機密としてかん口令が敷かれ、県民へ正確な情報は伝わっていなかった。

 対馬丸は44年8月21日午後6時35分、学童らを乗せて那覇から長崎へ出発。だが、南西諸島の海域は既に日本の補給路を断とうとする米潜水艦の動きが活発化。日本側の軍事情報は米軍に傍受され、対馬丸の船団もボーフィン号に追跡を受けていた。

 当時、建造から30年がたった老朽船は速度が遅く、翌22日午後10時12分、鹿児島県悪石島の北西約10キロで魚雷を受け、11分後の同23分に沈没した。

 対馬丸記念館によると、乗船者のうち氏名が判明している1484人(2019年8月22日現在)が犠牲になった。うち半数以上の784人が学童だった。

(1)出発の朝、ぼくは身支度をはじめました。集合場所にはたくさんの人が集まっていました。シーちゃんの母親は「元気でがんばるのよ」とぼくを抱くようにして、頭をなでてくれました(スケッチ/原文 上原清)
(2)疎開団の船が岸壁を離れはじめると、これが最後になるとも知らずに、家族たちがいっせいに手を振りました
(3)ぼくらに与えられたのはこのカイコ棚のようにせまくてきゅうくつな場所でした。ぼくらは決められた棚にすわって弁当を食べ始めました。
(4)「ドーン」という爆発音と激しいゆれで飛び起きました。「船がやられたぞー!」という叫び声があっちこっちから上がりました
(5)ぼくはイカダより大きい箱形の船に乗り移りました。夜が明けると周りにはいろいろな物にまじって死体も浮いていました。疲れと幻覚で子どもたちが海に身を投げていきました
(6)漂流5日目。遠く水平線上に小さな細長い黒いものが現れ、それは島でした。「助かったぞ、ぼくは生きているんだ」

■絵通しいろんなこと感じて

 自らの体験を描いた上原清さん(85)=対馬丸記念会評議員・対馬丸語り部の会会員=の話 戦争で真っ先に犠牲になるのは子どもたちだ。今まで120~130枚の絵を描いてきた。文字だけではなかなか伝わらないこともある。多くの世代の人に絵と対話し、いろんなことを感じてほしい。