ふるさとへの祈り 南洋戦75年(2) 兼城賢愛さん(85)うるま市

 米軍のジープに揺られ、たどり着いたのはサイパン島南部ススッペの収容所。1944年末、当時11歳だった兼城賢愛(けんあい)さん(85)=うるま市=は車から降り、中へと歩いた。戦で身寄りを皆失ったと思っていた兼城さんに、いとこ伯母(母のいとこ)と弟が駆け寄る。

目を閉じ、手を合わせる兼城賢愛さん=8月27日、サイパン島・おきなわの塔

 「やぁー、ちゃーし暮らしちょーたが?(あなた、どうやって暮らしていたの?)」。再会に驚く伯母らと泣いて抱き合った。サイパンで日本軍の組織的戦闘が終了し、すでに半年近くたっていた。

 しかし、家族の姿はなかった。「生き残ったのは私と弟だけ。両親と他のきょうだい3人は帰って来ませんでした」

 2歳の頃、沖縄からサイパンに移り住んだ。戦中、6歳上の姉は日本軍に動員され、両親と残ったきょうだい4人で山や密林の中を逃げ回った。日中はじっと隠れ、夜にあちこち移動する生活。さまよう人々の波にのまれ、兼城さんは家族とはぐれた。

 海岸の絶壁では、海に浮かぶ多数の死体を見た。怖くなって引き返し、北部の山で、道中に出会った日本兵と生活を共にした。

 大人1人がやっと通れる地面の割れ目を降りると、5~6人が入れる洞穴があった。草木をかぶせて入り口を隠し、身を潜める毎日。一度は山を捜索する米兵にガス弾を投げられたが、必死に口をふさぎ、気配を消した。

 それから約半年後。山の麓にあった収容所のごみ捨て場で、衣服を探している時に「捕虜」になった。「地上戦が終息し、たくさんの民間人が収容されていたことも知らなかった」と振り返る。

 収容所で再会した弟もほとんど記憶がなく、両親ときょうだい3人が亡くなった場所はいまだに分かっていない。

 「遺骨もないし、墓にはサイパンから持ってきた石ころしか入っていない。現地に行くしかないんです」。何度も参加した慰霊の旅に懸ける思いをそう語る。

 8月27日、団体では最後の慰霊祭。焼香した兼城さんは「寂しさは残るけど、無事手を合わせることができてホッとした」と表情を緩め、「戦争だけは絶対に避けないといけない」と反戦を誓った。

 私が歩けなくなっても、娘や息子にはサイパンへ行ってほしい-。鎮魂の願いは、心の中に絶えずともっている。(社会部・新垣卓也)