1945年9月7日は、沖縄戦終結を公式に告げる降伏文書が調印された日。一方、7日で94歳となる伊禮進順さん=糸満市=は74年前のこの日、日本軍の降伏も知らずに本島南部の壕(ごう)に潜み、「死と対峙(たいじ)する日々」を送っていた。敗残兵掃討を続ける米軍から必死で逃れ、自決覚悟で手りゅう弾のピンをくわえたこともあった。投降したのは9月14日。死と隣り合わせだった恐怖は今も拭えない。(社会部・新垣玲央)

沖縄戦時に所属し、ほぼ全滅した部隊の名簿を手に、凄惨な戦場の様子を振り返る伊禮進順さん=糸満市内

 真壁村(現糸満市)宇江城出身で、母親が旅館業を営む那覇市で育った。那覇市立商業学校(現那覇商業高校)時代は水泳選手として大会に出場し、背泳ぎで県1位になった。そんな学生時代、いつかは兵隊になると「覚悟していた」。

 軍国主義下、厳格な父の教えもあり「国のために死ぬのが名誉」と考えていたと振り返り、「あの時代、当たり前だと思ったことが、今考えると何が名誉かも分からん」と唇をかむ。

 44年10月15日、19歳で徴兵され、第24師団歩兵第89連隊に入隊したが、45年5月に部隊はほぼ全滅。陣を構えた与那原町と西原町の境にある運玉森で、米軍と2日間繰り広げた手りゅう弾戦で部隊は壊滅した。所属していた第2小隊の生き残りは48人中、伊禮さん含め2人だけ。足を負傷し、たどり着いた与座岳(現糸満市)の壕に身を隠した。

 降伏調印式があった9月7日以降も壕から見える米兵におびえる日々が続き、ガス弾攻撃を受けた後、別の壕へと逃げた。たどり着いた地元の宇江城では、半腐乱状態の死体が積み重なる壕内で一晩を過ごした。

 「死と対峙する毎日だった。あんな地獄、生きられるもんじゃない」。死体の横でうじがわいた水も構わず飲んだ。米兵に見つかる恐怖心から、一緒に居た民間人4人に軍刀を手に「付いて来たらたたき切る」などと脅したこともあった。

 「非情だが生きるため。とにかく精いっぱい。負けたという話も聞こえてきたが、どうすればいいか分からず何も考えられなかった。米兵に見つかりそうな時は手りゅう弾をくわえた」

 捕虜になったのは、先に投降した兵隊の説得があったから。指定された場所には民間人や兵隊が70人ほど居た。収容所では家族と再会したが、防衛隊に動員された3歳下の弟秀一さんが戻らないことを知った。

 いとこから、米軍に投降しようと誘って断られたこと、「わんねー兄さんがまだ兵隊(で戦場にいる)だから、帰ったらおやじにも怒られる」と言われたことを聞いた。どこでいつ戦死したかは分からない。「厳しいおやじのせい」と今も悔やむが、戦後、父も母も戦争の話はしなかった。

 戦争終結を知らず、死を覚悟し逃げた「降伏調印の日」がまた今年も巡って来た。「戦は、始まれば終わりの見えない地獄なんです」と戦時中を振り返る。

 伊禮さんの左こめかみには今も手りゅう弾の破片が残っている。戦後も激しい頭痛に長年悩まされた。黄リン弾に焼かれた左手のやけど痕など体に残る傷で、いつも凄惨(せいさん)な戦の記憶がよみがえる。「あの地獄、あの沖縄戦の苦しみを、今の人にとにかく知って繰り返さないでほしい」と願う。