市街地を走行する沖縄都市モノレール。浦添市までの延長区間での営業が10月1日始まった。

 沖縄都市モノレールの沖縄県の那覇市から浦添市への延長区間の営業が1日からスタートした。開業から16年が経ち、今では県民や観光客の足としてすっかり定着していますが、モノレールを沖縄に導入しようと最初に提案した人の存在はあまり知られていません。型破りのアイデアマンとして知られたその人の名は那覇市の市議会議長なども務めた高良一さん(1994年死去、享年86)。スケールの大きな話ばかりすることから「高良ラッパ」と呼ばれ、自他ともに認める沖縄を代表する「ホラ吹き」でした。

私費を投じて沖縄へのモノレール導入を夢見た高良一さん 。スケールの大きな話の数々に「高良ラッパ」の異名もついた

 高良さんは1907年、那覇市生まれ。57年から那覇市議会議長を3期務め、那覇市の高額納税者の1位になるなどやり手の実業家でもありました。人を食ったような言動で知られ、常人にはホラ話にしか聞こえないスケールの大きな構想を次々打ち上げていたそうです。

「高良さんは沖縄モノレールの『生みの親』だった」と振り返る仲本安一さん
 

 高良さんは終戦直後に、石川市(現・うるま市)の東西の海を結ぶ運河構想を提唱しています。高良さんと交流のあった元那覇市議の仲本安一さん(84)は「戦後の混乱期で、みんな食うのに必死なのに途方もないことを考える。これぞ『高良ラッパ』だよ」と懐かしそうに振り返ります。

 高良さんのホラは単なる出任せではなく、「有言実行」でもありました。戦後間もない48年には戦後初の映画館「アーニーパイル国際劇場」を開館。劇場前の通りは「国際通り」となり、劇場横につくった平和館の前の通りは「平和通り」となりました。旅館が主流の時代に、将来の観光立県を予言し、大型ホテルを建てて周囲をあっと言わせたこともありました。

国際通りの由来となった「アーニーパイル国際劇場」。当時、娯楽施設は珍しく連日多くの来場者で人気を集めた。現在の「てんぷす那覇」がある場所にあった(1951年7月撮影)  

 一方で、うまくいかなかったケースもあります。中城城跡の隣で、72年5月の日本復帰から数カ月だけ営業した「中城高原ホテル」がその一つです。暗闇にそびえ立つ「幽霊ホテル」と長年言われ続け、今年5月からは解体工事が始まっています。

1972年5月の日本復帰から数カ月だけ営業していた「中城高原ホテル」。5月から 解体作業が始まった(2019年6月撮影)

 そんな高良さんが吹いたホラの中でも実現しようと心血を注いだのが、モノレールでした。自費で数万ドルを投じて独自に調査するなど、1960年代初めから力を入れます。65年に打ち上げた構想では、那覇空港を拠点に浦添、宜野湾、北中城、コザ、具志川を経て、安慶名を終点に設定していました。

 モノレールの実現で高良さんが頼みにしていた日米両政府は、巨額の事業費を理由に背を向けます。このままではせっかくの調査資料も「お蔵入り」になってしまう。高良さんは議員引退を間近に控えた1969年夏、後輩議員だった仲本さんを仲介して、当時の平良良松那覇市長に「行政の力で実現してほしい」と膨大な資料を提供して託します。

 琉球列島米国民政府広報局出版部が1965年に発行した『今日の琉球』第9巻7号に掲載された高良一さんの寄稿。「交通難解消にモノレール」「那覇ーコザ間はわずか15分」のタイトルで、那覇空港を拠点に浦添、宜野湾、北中城、コザを経て具志川、安慶名を終点とする構想を打ち上げた

 仲本さんは「那覇市に託したことで、平良市長と親しかった西銘順治知事もモノレール話に乗り、事業実現の道が開かれた。高良さんの決断のおかげ」と振り返ります。「個人の手柄にするのではなく、沖縄のためにモノレールを実現しようとした高良さんは器の大きな人だった。2003年の開業を見ることなく逝ったのが残念でならない。モノレールの『生みの親』である高良さんのことはきちっと顕彰してほしい」と話しました。

「父親の高良一はスケールの大きな政治家だった」と振り返る長女の渡口初美さん

 高良さんの長女で、料理研究家の渡口初美さん(84)は「娘の私が言うのもなんですが、本当にスケールの大きな政治家でした。今はそんな人はいない。もっと高良一のことを知ってほしい」としみじみ語りました。

 「一つだけ言わせてもらってもいい。(モノレール導入の)恩人なのに招待状も届かないのよ。せめて無料乗車券ぐらい持ってきてもいいと思わない」。やはり最後は、父親譲りの歯に衣着せぬ口ぶりでした。(編集局 稲嶺幸弘)