折り込みチラシ7枚の裏に、びっしりとペンで書いた文字が並ぶ。南風原町与那覇出身の新垣誠勇さん(83)=同町=が3年前、自身の戦争体験や当時住んでいた自宅の敷地図を「記憶があるうちに」と走り書きしたものだ。

南風原町与那覇区の10・10空襲被害を捉えた写真。手前は与那原で、那覇方面からも煙が出ている(「ジョセフ・E・スペンサー空中写真コレクション」済州国立大学地理学教育専攻所蔵、琉球大学工学部・清水肇教授提供)

自身の戦争体験や、空襲で燃えた自宅敷地の図説を書いたチラシを見せる新垣誠勇さん。「記憶があるうちに書いておかないとね」=9月30日、南風原町与那覇

10・10空襲の時に身を隠した防空壕があった場所で、当時を振り返る新垣誠勇さん。「家が燃えたから、壕の中でも生活した」=9月30日、南風原町与那覇

南風原町与那覇区の10・10空襲被害を捉えた写真。手前は与那原で、那覇方面からも煙が出ている(「ジョセフ・E・スペンサー空中写真コレクション」済州国立大学地理学教育専攻所蔵、琉球大学工学部・清水肇教授提供) 自身の戦争体験や、空襲で燃えた自宅敷地の図説を書いたチラシを見せる新垣誠勇さん。「記憶があるうちに書いておかないとね」=9月30日、南風原町与那覇 10・10空襲の時に身を隠した防空壕があった場所で、当時を振り返る新垣誠勇さん。「家が燃えたから、壕の中でも生活した」=9月30日、南風原町与那覇

 最初の一文には、こう記されている。

 〈昭和19年10月10日の朝パラパラと音がするので上を見ると空全体に4機1組にして東から西の方へ飛んでいました〉

 この日、米軍は早朝から午後にかけて艦載機延べ1396機で沖縄本島や宮古、石垣、周辺離島などを無差別に爆撃した。

 軍民の死者668人を含む約1500人が死傷。那覇市域の約9割が焼失し、久米島沖でも八重山からの徴用船が撃沈されて約600人が亡くなった「10・10空襲」だ。

 「あれからはもう、街の様子も、生活も一変しましたから」

 1944年10月10日の朝。南風原村与那覇(当時)の自宅で、8歳だった新垣さんは与那原方面から那覇方面へと向かう飛行機の編隊を見上げた。

 「(日本軍の)演習かな」。隣家に住む伯父が言うと、機銃らしき音が響いた。那覇方面から次第に真っ黒な煙が上がり始める。「空襲だ。早く逃げなさい!」。伯父らに急かされ、道向かいの山にあった防空壕へ一目散に駆け込んだ。

 「パチパチパチッ」。近くで何かが燃える音が聞こえてきたのは午後になってから。怖さのあまり、壕内でぎゅっと身を縮めることしかできなかった。

 音がやんだ夕方、外に出ると、変わり果てた与那覇の光景が広がっていた。壕の山は木々が燃え尽き、かやぶきの自宅や飼っていた家畜、近所の家々も焼けていた。

 「10・10空襲は那覇のイメージが強いと思うけど、与那覇も灰の山でしたよ」。惨状を振り返り、新垣さんが言葉を強めた。

 「当時与那覇にあった家はね、ほとんどなくなりましたよ。焼け野原です」。当時8歳で見た10・10空襲の光景が忘れられない。

 南風原で唯一、空襲被害に遭った与那覇は1944年10月10日午後に落とされた焼夷弾(しょういだん)で、当時あった82戸のうち9割近い72戸が焼失。字誌などによると、死者はいなかったが負傷者が出た。

 夕方、新垣さんが壕から出た時も辺りの火はまだくすぶっていた。与那覇に長年語り継がれてきた浦島伝説で、主人公が眠るとされた小高い山「ウサン嶽」も焼け跡と化した。

 「米軍が近づいているとも知らずに、いきなりの空襲。ほんの数時間で一帯を焼き尽くされて、ただただ怖かった」

 住む場所を失い、食糧も焼かれた一家は着の身着のまま、1カ月ほど壕で生活した。配給の玄米に慣れず、おなかを壊した。その後、新しい家での生活も長くは続かなかった。

 45年3月23日、空襲は激しさを増し、新垣さんは母やきょうだい2人、親戚と共に北部へ避難。宜野座の山や空き家を転々としながら逃げ惑った。

 終戦後、米軍のトラックに乗せられて大里村(当時)の仮小屋へ移される道中、与那覇の自宅近くを通った。「新しく建てた家もなくなり、広っぱになっていて。私の家は2度壊された」。当時を思い返し、悔しさをにじませる。

 戦中、防衛隊に召集された父は帰ってこなかった。南部で亡くなったと聞いたが遺骨はない。弟と、戦後間もなく生まれた末の妹も栄養失調で亡くなった。

 生活を一変させ、家族の命までも奪った戦争。つらい体験の始まりは10・10空襲だった。

 「今の人たちに話しても、伝わるのだろうか」とも思いながら新垣さんは75年前の体験を記録する。「語れるのは私しかいないから。子や孫のためにも何か残せればと思ってね」。チラシの裏に記したメモは、いつか清書して形にする予定だ。

 戦後も与那覇に住み続けてきた一人として強く願う。「あの時、与那覇も燃えた。この事実を多くの人に知ってほしい」(社会部・新垣卓也)

    ◇   ◇    

 那覇の9割を焼き、飛行場や港があった県内各地で軍民に甚大な被害を及ぼした10・10空襲から10日で75年。それぞれが見た沖縄戦の「序章」は、人々の生活や世の中をどう変えたのか。戦火に追われた体験をたどり、当時を振り返る。