「空襲で学校はなくなるし最後には家族も失った。戦とはこういうものですよ」。当時、沖縄県立第二高等女学校1年生だった大宜味ハル子さん(89)=同県浦添市=は自身の体験を振り返り、戦争の不条理を訴える。

10・10空襲後の那覇市垣花一帯の焼け跡(川平朝申資料、那覇市歴史博物館提供)

戦前のきょうだいとの写真を手に「青春も家族も奪われた」と語る大宜味ハル子さん=4日、浦添市

10・10空襲後の那覇市垣花一帯の焼け跡(川平朝申資料、那覇市歴史博物館提供) 戦前のきょうだいとの写真を手に「青春も家族も奪われた」と語る大宜味ハル子さん=4日、浦添市

 「近代的な建物だった」という二高女の校舎は10・10空襲で焼かれ、以降、完全に授業はなくなった。「大切な青春時代が一瞬で消えました」

 1944年10月10日午前7時を過ぎたころ。通学のためきょうだいで借りていた那覇市上泉町(当時)の家を出て、垣花のガジャンビラの高射砲陣地造りに向かう途中だった。「パンパン」と何かがはじける音を聞き、日本軍が敵機を迎撃していることに気付いた。

 走って家まで引き返し、県庁の地下壕へ。「お尻が50センチぐらい浮く」ほど大きな爆撃もあり、外には出られなかった。

 空襲がやんだ夕方。県立第二中学校(現那覇高校)の辺りから、見渡す限り火の海と化した那覇を見た。「空は夕日で真っ赤、地上は火で真っ赤。あの光景は忘れられないね」

 その日のうちに、実家のある高嶺村(当時)まで歩いて戻った。その後は第24師団(通称山部隊)の奉仕作業に当たる日々。「空襲前までは兵隊とふざけ合うこともあったけど、そんな雰囲気もなくなった」

 戦況が悪化した5月末。隠れていた高嶺の防空壕に燃えた木々の煙が入り込み、逃げ遅れた母と次女姉が息絶えた。6月上旬には砲弾の雨の中を逃げ回り、父ともはぐれ、弟と2人だけになった。

 艦砲の破片が当たって飛び散る人の肉、幼い息子をその場に残して去って行く母親-。そんな光景を見ても「涙も感情もない、人間が人間でなくなる現実」だった。空襲の時、共に県庁の壕へ避難した沖縄連隊区司令部勤務の三女姉は行方不明になり、父も帰らぬ人となった。

 「二高女の生徒でいられたのは10・10空襲までの半年間。戦争がなかったら、ピアノも弾けて、絵も描けて、もっとすてきな人になれたかな」。年を重ねて、そう感じたこともある。

 「青春も家族も全部戦争が奪った。今の平和な時代を大切にしないといけない」。柔和なまなざしを険しくして言った。(社会部・新垣卓也)