一夜にして那覇市域の約9割が灰と化し、県内各地で甚大な被害を及ぼした10・10空襲から10日で75年を迎えた。

10・10空襲後の那覇市垣花一帯の焼け跡(川平朝申資料、那覇市歴史博物館提供)色付けは、早稲田大の石川博教授らの研究グループが開発したニューラルネットワークを活用

 約1400機の艦載機からの無差別爆撃は沖縄戦の前哨戦ともいわれ、被害は沖縄本島、奄美、宮古、八重山など広範囲に及び、少なくとも軍民668人の死者を含む約1500人が死傷した。

 米軍は日本軍の飛行場や港湾など軍事施設のほか、民家や学校など市街地にも焼夷しょうい弾を多量に投下した。同時に空中から大量の写真を撮影し、その後の沖縄上陸作戦に活用したとされる。

 対して、事前の警戒を怠った日本軍は前日に幹部が宴会に興じ、当日も敵機襲来を告げる県内各地の監視哨などからの打電もまともに受け止めていなかった。

 旧防衛庁資料などによると、日本軍は主要飛行場や港などが壊滅的な被害を受け、砲弾約3万発、機関銃弾と小銃弾約68万発などを失った。那覇港では米など約3800トンの食糧が焼け、その後日本軍に食糧供出を強要される原因にもなった。

 沖縄最大の都市那覇は1万1010戸が全焼全壊し、市の約9割が焼失。空襲前に約5万5千人いた市民は8千人に激減し、約4万7千人が他の地域へ避難した。