「バラ色に染まる暁の沖縄東南海上を低く機種不明の編隊機群が現われ、金属性の爆音をとどろかせた。初秋の空は、高く晴れ、千切れ雲が淡く流したようにたなびいていた。(略)前夜の防空演習の疲れで、那覇市民の、眠りは深かった」。住民視点に立って沖縄戦を記録し、1950年に出版した『鉄の暴風』(沖縄タイムス社編)は、44年10月10日をこう記述する。

 10・10空襲である。

 米軍は空母から発進した艦載機延べ1396機で、午前7時からの第1次空襲、午後2時45分からの第5次空襲まで約9時間にわたって540トン以上の爆弾を投下した。奄美大島から沖縄本島、周辺離島、宮古島、石垣島に至るまでの無差別爆撃だった。

 軍民の死者668人を含む約1500人が死傷した。飛行場や港湾、船舶などの軍事施設だけでなく、学校や病院なども爆撃した。民間犠牲者は那覇の255人を含め330人に上る。那覇の約9割が焼(しょう)夷(い)弾などで焼失した。

 当初、日本軍の演習と思った人が少なくなかった。

 学童疎開船「対馬丸」が撃沈され、6日間の漂流の末に救助された上原清さん(85)は当時10歳。那覇に戻って1週間余りたったころ、夜明けに渡り鳥が飛ぶように何機も頭上を飛んでいった。「友軍だ!」と兄たちと喜んで手を振った。だが警報音で敵機だと知り、壕に逃げ込んだ。

 那覇市山下町の日本軍高射砲陣地の日本兵も「バンザイ!」「バンザイ!」と歓呼の声を上げたとの証言もある。

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 米軍の狙いは、日本への物資輸送拠点だったフィリピン・レイテ島奪回のため日本軍の後方支援基地を絶つこと、日本本土侵攻の足掛かりとなる沖縄攻略に向け地形や軍事施設などを上空から撮影することなどといわれる。

 当日の空襲は日本軍さえ予測できない奇襲攻撃だった。それだけに衝撃は大きかった。迎撃機はほぼ見当たらず、生命や財産を失い、住民には日本軍への不信感と失望感が広がったといわれる。

 その後の沖縄に重大な影響を与えるのが「米軍の奇襲攻撃が成功したのは沖縄人スパイが手引きしたからだ」とのうわさが流されたことである。沖縄戦研究の大城将保さんは『沖縄秘密戦に関する資料』の解説で、うわさは本土の報道機関や政府、議会筋にまで伝わり、県民総スパイ説はこの時期からすでに表面化しつつあったと指摘する。

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 10・10空襲は翌年の東京、名古屋、大阪、横浜など本土の主要都市の無差別爆撃の始まりでもあった。沖縄では米軍の上陸が必至で戦場になることを告げるものだった。

 沖縄戦で、日本兵が住民を壕から追い出して食糧を奪うなど軍隊は住民を守らず、住民をスパイ視して殺害する事件が各地で相次いだ。

 民間人を巻き込み地上戦への岐路となった10・10空襲から75年。「ありったけの地獄」を集めたといわれる沖縄戦を予兆させ、事実上沖縄戦始まりの日とみることもできよう。体験者の証言から不断に学び直し、平和を希求する思いを引き継いでいきたい。