「ゴォー」

1945年ごろ、空襲を受ける中飛行場(手前、嘉手納)。右奥に北飛行場(読谷)が見える(嘉手納町教育委員会・「嘉手納町史別冊 町制施行40周年記念写真集」から)

友人の命を奪った10・10空襲を振り返る比嘉弘さん。「戦争は愚かな国策の結果」と強調する=読谷村

1945年ごろ、空襲を受ける中飛行場(手前、嘉手納)。右奥に北飛行場(読谷)が見える(嘉手納町教育委員会・「嘉手納町史別冊 町制施行40周年記念写真集」から) 友人の命を奪った10・10空襲を振り返る比嘉弘さん。「戦争は愚かな国策の結果」と強調する=読谷村

 1944年10月10日、午前7時すぎ。突然の爆音がとどろき、静かな朝は一変した。

 古堅国民学校高等科を卒業し、当時15歳だった比嘉弘さん(90)=読谷村=は読谷山村(当時)楚辺の自宅にいた。「何の演習かね」。背丈の大きい木の下に隠れながら上空の様子をうかがった。

 日本軍の北飛行場(読谷補助飛行場)方面へ向かったのは、何機もの米軍戦闘機グラマン。空襲警報が鳴ったのは、しばらくたった後だった。

 それから数時間、比嘉さんはその場に立ち尽くしていた。「何の気配もなかった空襲でね。不利な情報は隠される時代だから、まさか敵機が頭の上を飛んでくるとは思ってもみなかった」。現実離れした光景にわれを忘れていた。

 「早く来なさい」と両親に叱られ、やっと壕に入った。空襲がやんだ午後に壕から出ると、海を隔てた那覇に立ち上る大きな黒煙を目にした。

 米海軍の機動部隊は朝からの空襲で、小禄や嘉手納、伊江島など各飛行場を攻撃した。読谷も例外ではなかった。

 後日、空襲で友人が亡くなったことを人づてに聞いた。北飛行場での作業中、攻撃に遭って重傷を負った。父親が村まで連れて戻ったが、その日のうちに息を引き取ったという。

 「あの時分、遊びといった遊びはなくて。よく一緒に畑を耕したり、芋を作ったりしていた」。生前の友の思い出が浮かぶ。

 比嘉さん自身、空襲前は北飛行場での奉仕作業に加わった。「タイミングが違えば、私も巻き込まれていたかもしれない」と恐怖を覚えた。

 米軍上陸前の翌45年3月、また空襲が始まった。10・10空襲での友の死と、前触れなく襲ってきた米軍の機影が頭に残っており「空襲に対する怖さは増していた」と振り返る。

 アダンの木などに身を隠しながら国頭村へ逃げた。6月上旬、南下していた途中の恩納村で米軍の「捕虜」になった。防衛隊の父は浦添で戦死した。

 戦前、学校では竹やり訓練も受けた。「そんなものが通用するはずがない。ばからしい」と今は思う。「友人も、多くの県民も、愚かな国策に命を奪われた」。言葉少なにそう話し、目を伏せた。(社会部・新垣卓也)