1944年10月12日。当時、旧制県立八重山中学校3年だった山田善照さん(91)=石垣市真栄里=は晴れ渡る東の空から近づいて来る機影を見つけた。肉眼で捉えた時には4機編隊の戦闘機が1機ずつ高度を下げて迫ってきた。「おかしいな」。次の瞬間、空からの機銃掃射が山田さんらを襲った。友軍と思ったのは米軍機。島の住民とっては初めて見る敵機で、経験したことのない空襲だった。

石垣島への初空襲について、「何が起きたか分からず、全員が逃げた」と振り返る山田善照さん=9日、石垣市真栄里

「戦争につながる施設は造らせない」と、弾薬庫建設工事現場に座り込む砂川隆光さん(右)=9日、宮古島市・城辺保良

石垣島への初空襲について、「何が起きたか分からず、全員が逃げた」と振り返る山田善照さん=9日、石垣市真栄里 「戦争につながる施設は造らせない」と、弾薬庫建設工事現場に座り込む砂川隆光さん(右)=9日、宮古島市・城辺保良

 山田さんら生徒たちはこの日、真栄里の海軍南(平得)飛行場の建設現場にいた。軍部は43年11月、対潜水艦作戦の実効性を上げるため、既存の北飛行場の整備と南飛行場の建設を決定。年明けから女性や老人も総動員し、突貫工事を進めていた。

 作業内容の説明と訓示を受け、隊列を組んで持ち場に歩いて向かう矢先の午前9時30分ごろ。突然の機銃掃射に襲われ、数百人がクモの子を散らすように逃げた。「当時は伏せることを知らない。防空壕で隠れる訓練もなかった。身を守るすべを教えられず一人一人がちゃーひんぎー(一目散に逃げた)」

 奇襲はこの1回、約3~5分間のみで幸いにも死者はいなかった。脅しのつもりだったのかは知る由もない。ただ今回を機に断続的な空襲があり、「この戦争は危ないな」とうすうす感じ始めた。

 45年4月に鉄骨勤皇隊通信班に入り、於茂登岳山中で終戦を迎えた。軍命で避難した住民がマラリアで大量に死亡した地でもある。自身も罹患(りかん)し1週間死線をさまよった。山田さんは「島に軍事基地はいらない。戦争は絶対にあってはならない」と願った。

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 「バラバラバラと、ものすごい音だった」。宮古島市城辺の七又集落に住む砂川隆光さん(89)さんは、米軍機が島を襲った風景を今でも鮮明に覚えている。

 44年10月、福嶺尋常小学校に登校する途中で、複数の飛行機が低空飛行で近づくのが見えた。「敵機だ」と気付き、とっさに草むらに飛び込んで隠れたが、銃弾は容赦なく周囲に浴びせかけられた。「死ぬんじゃないかと恐ろしかった」。目の前の海には軍艦が並び、「そこから米軍機が何機もやってきた」と当時の恐怖を振り返った。

 あれから75年。市城辺の保良鉱山では、7日から陸自の弾薬庫建設が始まった。自身が空襲で命の危険を感じた銃弾や砲弾の保管施設が、身近に建設されようとしている。

 「諸外国は弾薬庫がここに造られると分かっている。戦争では必ず標的になると住民は怒っているんだ」。戦争体験者として座り込みで意思を示し、工事を強行する国に「二度と犠牲にはならない」と訴えた。 (八重山支局・粟国祥輔、宮古支局・知念豊)