「公」と芸術ーあいちトリエンナーレが残したものー 白川昌生

 国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」ではアートと表現の自由、公権力による関与が問題となった。出品作家や学芸員らに見解を寄せてもらった。

白川昌生

名古屋市の愛知芸術文化センター

白川昌生 名古屋市の愛知芸術文化センター
しらかわ・よしお 1948年福岡県生まれ。美術家・美術評論家。群馬県を拠点に、立体作品や絵画を制作。著書に『贈与としての美術』など。

 名古屋で行われた「あいちトリエンナーレ」(8月1日~10月14日)の会場内の小さな展覧会「表現の不自由展・その後」をめぐりさまざまな問題が起きている。「表現の自由」をめぐり日本の芸術、国の進路が一つの分岐点にきているのではないかとの危機感を私は感じている。

 8月1日のオープニングの後すぐに、河村たかし名古屋市長が不自由展の作品は「多くの日本人の心を傷つけるものだ」として展示の即時中止を要求した。その後、美術館、県にメール、電話、ファクスによる攻撃が行われ、ガソリンを撒(ま)くぞという脅迫が送りつけられることで、大村秀章愛知県知事は展覧会の中止を決め、8月4日から会場は閉鎖されてしまった。この動きに海外作家の一部などがすぐに反応し作品展示を中止し、展覧会の継続すら危ぶまれるに至った。

 展示の中止を求める人たちの多くは、キム・ソギョンさんとキム・ウンソンさん夫妻の出品した「平和の少女像」と、大浦信行さんの「遠近を抱えて」の2点に強く反応し、公金を使って日本人の心を踏みにじるような作品の展示をするべきではないと主張していた。前者は「慰安婦像」と呼ばれ、後者は「天皇の御影を焼いた作品」との「誤解」が広まっている。

 「表現の不自由展・その後」に出されている他の作品は、この10年近い中で公立の施設、美術館などで検閲、展示拒否された、個別のさまざまな問題を抱えている作品である。

 私の場合、2017年に群馬県立近代美術館で行われた「群馬の美術 2017」に「群馬県朝鮮人強制連行追悼碑」の作品を出品しようとしたが、当時裁判が進行中で当事者に県がなっていた。県が管理する美術館でその作品は展示はふさわしくないとして、展示ができなかった。今回、芸術監督の津田大介氏から「表現の不自由展・その後」にぜひ出してほしいという依頼を受けて出品したのだ。

 そしてこれらの検閲、展示拒否を行政に行わせている源は、歴史教科書で太平洋戦時下での沖縄の「集団自決(強制集団死)」、軍事施設などの建設への強制労働、慰安婦問題などを消去、書き換えたりさせる保守政権の歴史修正主義者や、大日本帝国への回帰を再び求めている政権内の右翼主義者たちからの圧力なのである。

 芸術活動は社会の中で展開されて行く以上、社会的問題と無縁であるはずもないのに、芸術の自立を口実に社会、政治、生活とは関係を持たない純粋な美を求めるような価値観が、芸術の中に持ち込まれ教育の現場でそれが定着している。美しいもの、快適なものだけを芸術は表現すればいいのだ、社会に生きて感じる喜び、苦悩、矛盾、予感などを表現などする必要はない-ある意味で芸術が批判的精神を持つことを現政権は認めようとしないと言える。

 表現の自由は表現のみならず、それと不可分の、見る・知る権利とも繋がり、民主主義体制の中ではそれは基本的人権ともつながるものなのであるが、大日本帝国へ回帰したい右翼政治家には、国民に人権はいらないと発言する議員もいるのが現状である。

 大村知事が10月8日の展覧会の再開を発表し最終日までの約1週間は展示が見られることになったが、荻生田文科大臣は不交付の判断は変わらないとのべた。そこまで現政権はやるのかと、唖(あ)然(ぜん)とした気持ちになった。「現政権にとって不都合と判断されたものは、『見させない』『聞かせない』『言わさせない』『やらせない』という文化統制的な縛りでやって行くぞ」、という意思表示だと理解したのは私だけではなかったので、多くの文化団体などがすぐに文化庁に抗議、反対の声明文を出している。一体この国はどこへ行こうとしているのか、右翼政権のいう「美しい日本」がその先なのか、考えると空恐ろしくなる気がした。 

 さらにこの不交付文書への文化庁長官の関与は不透明で、その上に文部科学大臣まで「私から文化庁に何かを指示したりということはありません」と言い切っている。文化庁の官僚が勝手にシステムにのっとり自動的に発行したという、不思議なお話になっている。まるで戦時中に大本営発表として嘘(うそ)の情報を流し続けていたのに、まるで責任の所在がどこまでも不在であった、ということを連想させ、同じ構造が現在も残っているのかと、これがこの国の政治なのかとあきれ返る。

 今回の「表現の不自由展・その後」に関わることで起きてきた出来事は、今まで見えていなかった部分が表面に露出し、現政権下で隠されてすすめられてきていたことを見えるようにした、といえるが、その方向でいいのか、敗戦後に作られた民主主義の崩壊に向かっているのではないかという危機感を感じざるを得ない。