「公」と芸術ーあいちトリエンナーレが残したものー 居原田遥

 国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」ではアートと表現の自由、公権力による関与が問題となった。出品作家や学芸員らに見解を寄せてもらった。

居原田遥さん

筆者が参加したワタン映画祭の会場となったワジヤシネマ=2019年、ミャンマー・ヤンゴン(筆者提供)

居原田遥さん 筆者が参加したワタン映画祭の会場となったワジヤシネマ=2019年、ミャンマー・ヤンゴン(筆者提供)
 いはらだ・はるか 1991年岡山県生まれ、座間味島育ち。キュレーター。東京藝術大学大学院修了。沖縄とアジア圏をフィールドに展覧会の企画・作品制作のコーディネートを行う。

 公権力は手ごわい。ミャンマーで映画祭に参加したことがある。参加するにあたって、まず説明を受けたのは、映画祭で上映される作品全てに事前の検閲が義務付けられることだ。ここでいう「検閲」とは、事前に全てのデータを行政機関に設置される委員会に提出し、その内容が公開に値するか否かを判断させるプロセスのことである。対象となり得るのは、喫煙や女性のヌードなど社会に悪影響を与えると判断される描写と、現政権にとって不利益になる政治問題を扱うものや反政府的な主張を含む描写である。

 しかし、これらの判断基準は不明確で、審査を受けてみないと結果がわからない。また、事後の反論は認められないし、根拠が説明されないことも多い。「日本は自由で楽だ」。東南アジアを拠点にするアーティストの友人たちから何度も言われた言葉である。

 軍事政権下や社会主義体制の下では、制度化された検閲というかたちがあるように、「公権力」があからさまにその力を行使する。無論、そこは表現者にとって、生きやすい場所ではない。何より困難なのは、こうした「検閲」が、表現と創作の前提条件になってしまうことだ。芸術家は、理不尽な検閲を想定しながら表現を作らなくてはいけない。戦後、民主主義という国家体制を選択し、「表現の自由」を保障する憲法が社会的に尊重されてきた日本は、それらの国々と比べると、自由にも見える。  

 しかし、「あいちトリエンナーレ2019」で起こったことは、国際社会に対しても、日本の民主主義の崩壊を示す警告的な出来事となった。私は、会期中に2度、足を運んだ。作品展示だけでなく、映画やパフォーミングアーツ、音楽などさまざまなジャンルのプログラムが設けられている。また、沖縄の米軍基地建設をはじめ、植民地や東アジアの歴史認識に関する史実、各国に広がる難民の現状など、現在の世界が抱えるあらゆる問題を扱った作品が並ぶ。

 芸術家の視点で多様な主題を表現へと変換し、国という枠組みを超えた創造的な観点を提供することが国際芸術祭の役割だと私は理解しているが、その意義を十分に果たしている。一時閉鎖に追い込まれた「表現の不自由展・その後」も、既に多くの説明がなされているように、その趣旨は、偏った政治的プロパガンダでもなければ、侮辱行為でもない。同芸術祭は、少なくとも国際社会に向け、多様な価値観を求める思考を提供するアートの現場であることに間違いない。 

 その上でなされた、文化庁による補助金不交付の決定は、明確に不当な公権力の行使である。大学をはじめとする多数の文化団体が抗議声明を発表し、事実上の「検閲」だと指摘しているように、権力構造の上に立つ行政機関の横暴にほかならない。さらに、補助金の不交付は事後決定であり、その根拠は「手続き上の不備」とされている。具体的な説明はされず、その真意や不交付に至る経緯までも、現段階ではまだ不明である。今後あらゆる文化事業や表現が、政権にとって都合が悪いと判断された場合に、曖昧な理由を盾に排除される。このような前例を断じて容認すべきではない。

 こうした状況下で、表現や文化はこれからどうしていくべきなのか。先述した映画祭で検閲対象として指定された場合、もちろんその対応が必要となる。例えば、対象が喫煙描写の入った映像の一場面だった場合、「禁煙」と記されたロゴないし文言を大きく表示する。また女性のヌードの場合は、上映時にプロジェクターに手をかざして物理的に見えなくさせるという方法もある。なんとも「それでいいのか!」となんだか拍子抜けしてしまうかもしれないが(実際に私はそうだった)、たとえそれが泥臭い手段であろうとも、具体的な方法を対策として実行し、目の前の検閲をかいくぐるしかない。

 なにより重要なのは、行使された不当な権力に、闘い続ける姿勢を保つことである。この映画祭も「続けること」を最優先に、具体的かつあらゆる対応策を取り続けている。そして、過酷な状況だからこそ、力強い表現が、生まれることもある。 

 「不自由展」の閉鎖を受け、あいちトリエンナーレに参加したアーティストらは、会期中の2カ月間、展示再開のためのアクションと、さらには出来事の理解を発信する解決策に尽力し続けていた。個々の作品の展示中止や作品内容の改変をはじめ、署名やキャンペーン活動、さらには参加アーティストによるコールセンターの設置など、短い会期の間に、さまざまな方法を実践していた。これらの展開が身を結ぶのには時間がかかるかもしれないが、あいちトリエンナーレが残した「希望」は、たしかにその芸術祭の現場で生まれている。 

 文化が検閲されることは珍しくない。さらには公権力が存在しない社会などない。あいちトリエンナーレの一連の事態を目の当たりにし、忘れかけていた不当な公権力に対応するための思考と対策を、粘り強く続けていかなくてはならない。